私の閉院後生活

協会には「医院を閉院した後の生活が想像できない…」「閉院の際にはどんな事務手続きがあるのだろう?」などの声が、会員から寄せられています。これを受けて、先輩方の経験談を京都保険医新聞で語っていただきました。第1弾として、15年3月に医院を閉院し、同年に認知症カフェを開設された野々下靖子氏(乙訓)に、閉院時の苦労やカフェ開設の奮闘などを全3回で執筆いただきましたので、ご案内させていただきます。

野々下 靖子さん…1935年、京都市(鹿ケ谷)生まれ。59年に関西医科大学卒業し、60年に精神神経科学教室へ入局。68年に出産退職し、同年に向日町(当時)で内科・小児科・精神科の医院を開業した。73年に医院を長岡京市へ転居。15年3月に野々下医院を閉院。同年9月にけやきの家(認知症カフェ)開設、現在に至る。2002年、地域医療の先端的活動に対して森本賞医療功労賞を受賞。

診療は卒業!

2015年3月31日、野々下医院の診療を終えました。

1973年(昭和48年)4月から一時の休診期間を除いて、当地での実働はほぼ40年でした。西山山麓の竹藪を切り開いて作られた73年当時の新興住宅団地です(初回開業は向日町で68年12月でした)。

5〜6年前から、80歳になったら閉院し、その時点でエネルギーがあれば別のことを始めようと考えていました。その気持ちは患者さん達に漸次伝え、彼らからも「80歳まで働いたら、もうかんべんしたるわ」と言われ、その時はこの診察室を開放して「みんなのたまり場」にしようと話し合っていました。

15年年明けから、閉院計画と認知症カフェ開設計画を同時進行で進めました。まず第一に、診療情報提供書です。3月に発行できるようパソコンで下書きを始めました。ごく僅かですが開院時から40年余り通院の方もおられます。高齢の方の場合は寝たきりになることも考えて、往診を活発にしておられる若手の先生に紹介しようと考えました。当然するべき仕事とはいえ診療情報提供書をその方の受診日に合わせて発行することはとても大変でした。

第二はカルテの整理です。医師は医師法第24条で5年間の保存が義務付けられています(*1)。まず、今後も参考にしたい特別な症例は抜き出しました。次にここ5年間来院していない方のカルテはシュレッダーに。あとは最終来院月別に箱に分け入れ、念のためシュレッダーに回す年月を箱の目立つところに書いておきました。

このとき大変困惑したことがあります。患者さん各個人の記録の残すべき範囲です。当院のカルテは厚紙の二つ折りを表紙とし、間に2号紙を挟む形式で、各患者さんの初診から現在まで綴じています。ごく一部の方はほとんど40年分ですからさすがに挟めなくて、別の袋に入れカルテ棚に保存していました。その2号紙のどの範囲を保存すべきかが判断できなくてあちこち問い合わせました。結局生涯全部ではないかということで、40年にもわたって診療をしてきた患者さんの保存カルテの嵩を減らすのは容易ではありませんでした。

並走でカフェ開設の準備をしていたこともあり、混乱することもたびたび。一度聞いただけではわからなくなることもあるので、閉院に向けてのマニュアルなどがあればよかったと思う次第です。

(*1) (医師法第二十四条)1 医師は、診療をしたときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなけばならない。2 前項の診療録であつて、病院又は診療所に勤務する医師のした診療に関するものは、その病院又は診療所の管理者において、その他の診療に関するものは、その医師において、五年間これを保存しなければならない。

山ほどある事務手続き

3月末で診療を終え、そのあとすぐ、診療所閉鎖届などが必要です。近畿厚生局、乙訓保健所、府医師会、医師国保、税務署、ハローワーク(雇用保険適用事業所廃止届)などです。それぞれ書式が異なりますが、どの役所でも親切に指導されました。これらの事務手続きはほとんど府医師会で教えていただきました。そのほか年会費の高い所属学会も退会届を急ぎました。かつて学校医をしていましたが、乙訓医師会で校医70歳定年制を提案し、70歳の時、若い先生にバトンを渡しました。公的な委員をしておられる先生方は、閉院する何カ月か前に予告する必要があると思います。

地域の方たちは閉院をご存知でしたが、一応閉院のお知らせと次のカフェ開設チラシを作り配布しました。

さて、職員は閉院してすぐ退職というわけにはいきません。事務職は3月分のレセプト。看護職は前回に書きましたカルテ整理を手伝ってもらわねばなりません。何しろ1973年からのカルテの山です。薬剤、医療機器の整理と廃棄。初めてのことで、しかもノウハウを知るための資料もなく大変苦労を重ねました。家庭ごみの処理のようにはまいりません。医療廃棄物をどこに頼めばいいかは協会に相談しました。

予想外だったのは診察机・ベッドを含めて諸道具の廃棄処分でした。残薬および医療器具の廃棄は保事協に依頼しました。患者さんの生涯カルテにしたため、患者数は多くないのにカルテが山ほどあり、大型スチールの引き出しを使用していました。まだまだ使えるのに廃棄物です。後になって、スチール家具については専門の業者がありインターネットで探せばよいが、業者の法的資格を確認して選ぶ必要があるとのことです。ヤフーオークションに出すという方法もあると助言されましたが、今や遅し!

私は次のカフェのための工事を始める日までに室内をカラッポにする必要に迫られて、全く時間的余裕がありませんでした。低価格でも販売して収入を得るのと廃棄費用を支出するのとでは差があり、調査不足で失敗です。

従業員の再就職先を当たらなければという思いは持っていましたが、自分たちでしっかり見つけ、私自身はそのためのエネルギーを全く使わず済みました。

従業員の退職金・改造費・カフェのための新しい諸道具購入等は前もって見積もり貯金をしていましたが、廃棄費用は見積もり不足で貯金では賄えず、個人の老後費用を使うことになりました。つまり、収入ゼロで支払いばかりが続きました。

狭い診察室を改造、認知症の人・家族・地域のボランティアが集まれる場にしなければなりません。看板は野々下医院からけやきの家(認知症カフェ)に変わりました。テーブルは私のあこがれの欅の1枚板です。椅子は5脚入れたところで予算切。見かねた知人から閉鎖する喫茶店を紹介され、とても素晴らしい椅子を8脚頂戴しました。かかわる知人たちから「見てられへん」と多くの助けをいただき、どうにかカフェができ上がりました。

カフェオープン!

2015年9月2日、けやきの家(認知症カフェ)はオープンしました。

前もって登録して下さったのが限られた人だけで、当日まで不安でしたが、開けてびっくり。狭い部屋に入りきれず、来て下さった皆さんに窮屈な思いをさせてしまいました。集まった顔を見ると当事者もボランティアも、ほとんどが旧野々下医院の患者さん達で、皆さんにとっては通いなれた診察室でした。

「認知症カフェ」とは、認知症の人やその家族・認知症予備軍といわれる人や、地域住民のボランティアが気楽に集まり、お茶を飲みながら談笑しあう場という形が基本と考えます。けやきの家の場合は専門職もいますから、医療やケアの相談も受けます。

野々下医院では平成に入ったころから認知症の方の受診が増加し、最近では軽度認知障害や認知症初期の方が相談に来られるという体験をしていました。早期診断をし、本人・家族へ告知を行い、続いて起こるであろう生活障害とその対策の説明をしても、現実には彼らに受けていただくサービスがありません。単純な私は「そんなら私がその一部を担うカフェを開こう」「医療と福祉の橋渡しをしてきた者にピッタシや」となったわけです。

そこで自分なりに認知症の問題と地域の課題に対応するため目標を立てました。

①軽度認知障害・認知症初期の人に対するサービスを考える②認知症の人の本来有している能力を出していただき、社会での役割を担っていただく③近隣の住民との対話の機会を作る④認知症に対する偏見を是正し、正しい理解が深まるための努力をする⑤介護家族は生活面での知恵の交換を行い、ほっと心安らぐ時間を共有していただく―。

開催は月に2回。第1第3水曜日の午後1時半から3時半まで。申し合わせたことは「お互い、話はよく聴きあおう」「持っている力はだす(人使い荒いなあの感想あり)」「参加者は全員お茶とお菓子代1人1回200円」「やりたいことは提言する」などでした。実は提言が多くプログラムに挙げられないのが実情です。

15年9月から16年10月までの参加者人数(表1)と、自宅からカフェまでの距離(表2)で分類してみました。表を見ていただければ、当事者もボランティアもほとんどご近所さんです。今後の認知症対策としてこのような小さなカフェが歩いて行ける範囲に多く設置され楽しく活動できる社会になればと願っています。(おわり)

表1
開催回数 25回(当事者128人、家族65人、サロン的利用者107人、スタッフ100人、
ボランティア112人、見学29人、合計541人)

表2
150m以内  当事者家族13人、サロン的利用者3人、ボランティア5人、合計21人
150~250m 当事者家族4人、サロン的利用者0人、ボランティア0人、合計4人
250~550m 当事者家族3人、サロン的利用者0人、ボランティア0人、合計3人
550m以上  当事者家族0人、サロン的利用者0人、ボランティア4人、合計4人

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