前回(本紙第3176号)、御土居の袖の北側部分が西にしのきょうじにん京神人の居住地であったことを根拠に袖の成因に北野天満宮が深く関わっている推論を紹介しました。
中村武生氏の『御土居堀ものがたり』によると以下の4説が紹介されています。
①良質な湧き水が存在するのを取り込む
② 弘誓寺の存在(堀のために寺の移転を強要するのを遠慮した)
③ 下立売通(妙心寺通り)に面した辺りだけが街区を形成していた
④ 西側の敵への防御
いずれの説も決定的なものではなく、川井家住宅が③の街区(中保町)に存在していたことを示し、怨霊信仰が謎を解くカギになると考察しました。
そこで、ポイントとなる史実を挙げます。
● 秀吉軍は1590年の小田原城攻めにおいて、総構を突破できず翌年にはより大規模な総構(御土居)を京都に築造した。
● 平安京造営に際して、川の流れも南北に真っ直ぐになるように変更され西堀川(紙屋川)が作られ、南にある市場に物資を運ぶために道と並行したため(図1)、大雨が降るとすぐに氾濫を起こした。すなわち、右京は治水の失敗によって(特に三条より南側かつ佐井通より西側が)衰退した。
● 中世の京都には「京都七口」という出入口が設けられ、これらをつないだ線の内側がおおむね洛内であり、御土居もその線に沿って築造された(図2、3)。なお、西三条口が袖の近くに存在していた。
● 御土居の東西は、東の鴨川と西の紙屋川の水害から市街地を守る堤防のように築造された。多くの寺院を主に鴨川沿いの寺町と呼ばれる東側に強制移転させて御土居に続く第2の防壁としての機能を持たせた。
● 西側には、怨霊信仰では絶対移転不可能な北野天満宮や平安京の守り神である大将軍八神社が存在していた。
● 聚楽第は平安京の内裏の跡地に建築され、その立地によって権威が誇示された。
● 西京神人は秀吉の時代には侍分(武士)として認識されており、御土居堀の形成によって減少した支配地の二九石分の替地が西院村に与えられた。
● 御土居が築造されるほぼ百年前の1490年までは、北野天満宮の御旅所が新長谷寺という四ノ保という御供所に存在していた。
以上の史実から、袖が築造された理由として以下の事柄が導けると考えます。
1. 紙屋川の氾濫を防止するという治水事業として西側の堀を階段状にした。
2. 紙屋川を介して物資を洛中に運び入れたり、袖の部分に関所としての役割を与えるなどの流通経済上も必要であった。
3. 西京神人が所有し支配していた地域が袖の西と南に及んでいたが、御土居堀で分断することで結束を促し、袖の特に西と南側の見張りと防衛面の強化に利用した。
4. 大将軍八神社と北野天満宮は怨霊信仰によって平安宮の天門(北西)に位置し、防衛上弱点とされている部分を大将軍の地域に守らせる形にした。
5. 御旅所が存在していた四ノ保(中保)が洛中に取り込まれたことから、百年前までと同じく洛中で勅祭としての北野祭が復興できるようにした。
6. 摂関家となった豊臣氏にとっては、菅原道真の怨霊が脅威であり北野祭を催行することで安泰を図ろうとした。
紙面の関係でかなりの説明文を割愛しました(続々編が要りそうです)。少なくとも怨霊信仰を考慮することによって謎解きに少しは近づいたと考えています。参考文献『地形と地理でわかる京都の謎』(青木 康・古川 順弘著、宝島社新書、2022年)『北野の史実』(浅井 與四郎著、北野天満宮、1998年)『御土居堀ものがたり』(中村 武生著、京都新聞出版センター、2005年)
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