その職業病とは、一つは「けんしょう炎、頸肩腕障害」、もう一つは「林業労働者の白ろう病、振動障害」であり、関わってかれこれ50余年になります。
1965年までは山陰で医学生として無医村診療に携わっていました。66年から京大病院で臨床研修を開始しました。その間、無給副手として市中病院での修練を積んでいたその時期に2人の医師に遭遇し、その存在が私の生き方を決定付けました。
1人は、橋本雅弘先生(現在、97歳)で吉祥院病院長として、全日本民医連や保団連の先駆的な医師として、民主的な医療、民医連綱領づくり、慢性疾患管理活動、さらに中小企業労働者を対象とした労働災害・職業病の取り組みを開始していました。もう1人が、当時、関西医大の助教授であり、労働医学者(後の「過労死」の命名者の1人)として名高い細川汀先生(20年逝去)であり、同病院に「労働衛生相談室」を開設していました。
60年代末の日本は、産業界の急速な機械化、近代化、社会構造の変化によって、公害、交通災害とともに、職場では労働災害や職業病が多発していました。ちょうど吉祥院病院でも、週末に開いた「相談室」には、待合室の廊下に、京都中の金融機関の若い事務職員が訪れ、医師の卵の私も助っ人として問診や検査に加わり、新しい医学分野があることに気付かされました。彼女らは手や頸肩の痛みを訴えても、どの医者もまともに診てくれないことを訴えていました。
これが契機となって、その後、民医連の内科臨床医として「労働医学」の分野を追求することを決意しました。
さらにその当時に遭遇したのが、もう一つの職業病「林業労働者のチェンソー使用による振動障害」でした。その後、68年以来、毎年のように(約30年間)、土、日に細川先生の助手として職員も含め、京都府内10カ所の農山村を1泊して巡回し、健診と実態調査を継続実施しました。また交流集会や研究会を開催して全国にも発信し、活動の枠を広げました。
二つの分野とも、当時としては、病像も治療法も未確立の医学分野であったことから、症例を集めて、産衛の地方会や学会で発表することから始め、やがて取り組みは全国に広がりました。また海外の医師との意見交換や全国の関係医師の研究会開催、全国調査の実施や業務起因性を巡って、学会の権威との熾烈なやり取りや裁判所での証言(医学鑑定)も経験するようになりました。
両障害とも20年、30年の経過の中で、職業病として府内だけでも数十例、数百例の労災認定がはかられ、国際的な認知を受け、例えば「作業関連筋骨格系障害」と学問的に整理され、労働条件の改善、健康診断による早期発見と機械工具の改善などによって、新しい障害の発生は抑えられるようになりました。
なお今日、施行50周年を迎えた「労働安全衛生法」の条文が私たちの取り組みの指針となりました。
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