京都大学大学院 人間・環境学研究科 研究員 佐藤 泰子 氏
京都大学大学院人間・環境学研究科研究員の佐藤泰子氏を講師に、2022年7月31日開催の第75回定期総会で記念講演会を開催した。以下、概要を紹介する。
病気になったり、苦しいことが起こった時、「何で私なんだ」「何でうちの子が」という問いが起こるわけですが、人はこの問いに答える言葉を持っていません。不条理で理不尽な「どうにもならなさ」「どうしようもなさ」が、「生きている意味がわからない」というさらなる苦しみをもたらす。患者でなくとも、苦しみのどん底に突き落とされた人は、みな「生きる意味」について苦悩します。今回は「苦しみとは何か」「生きる意味とは何か」について考えたいと思います。
言葉が
苦悩を生む
私たちは言葉を使って考えています。言葉や概念を使って考えることで、いろいろなことができるようになりました。科学・医学を発展させ、宇宙に行けるようになり、不治と言われていた病気もいくらか治せるようになりました。
ところが、言葉を手に入れたことによって、同時に引き受けざるを得なかった副作用があります。それが苦悩です。「何でうちの子が死ななければならないのですか」「何で私がこんな病気になったのですか」という苦悩は、言葉の世界で起こっています。
その言葉は小説のように理路整然とした文章で頭に浮かんできません。がんであと3カ月の命と言われたら「がん…リストラ? 治療? 300万? これから家族の人生はどうなる?」と、浮かんでは沈む言葉が頭の中で混沌としています。浮かんでくる言葉を浮かんでくるままにばらばらに話しても相手には伝わらないので、言葉をうまく並べ、再構成して語るわけです。語るとは、ばらばらに浮かんでくる言葉(思い)を並べていく作業なのです。自分の思いを客観視するので少しだけ楽になりますが、話したからといって苦しみから完全に解放されるわけではありません。
苦しみと
緩和のプロセス
がんになった、足が動かなくなった、自力でトイレに行けなくなった…自分にとって困ったことに対して「NO」だと思うところから、苦しみは出発します。心のどこかにある「こうありたい事態」の反対のことが起こった時に、私たちは、そのことに「NO」を突きつける。苦しみというのは「これでいいのだ、じゃないのだ」「これはNOだ」というところから始まります。
そうなると、その「苦しいNOな事態」を動かして「こうありたい事態」の方に近づけようとする。「先生、治せるもんなら治して下さい」と、治療したいと思うわけです。ところが、全ての「苦しいNOな事態」がどうにかなるわけではありません。どうにもならない時、人は自分の「思い」の方を少しずつ動かしていく。思いを動かすというのは、「苦しい事態」「こうありたい事態」の意味を変更していくことです。
意味が変わるというのは例えばこういうことです。がんになったある女性が「私、人工肛門になりました。大好きだった旅行にも行けないし、私の人生は、もう終わった」と言っていました。5年くらい経った時「人工肛門のせいで私の人生は終わったって言ってましたよね。違っていました。人工肛門のおかげで命を拾ったんです。あの時に手術しなかったら、とっくに死んでいます」とおっしゃった。人工肛門という「事態」は同じだけれども、人工肛門の「せいで」から「おかげで」と、人工肛門の意味が変わったのです。
人は苦しい時、できれば「苦しいNOな事態」を「こうありたい事態」へ動かしたいが、事態が動かない時に、「どうにもならなさ」「どうしようもなさ」から「生きる意味がない」「希望がない」と絶望するspiritual pain を抱えます。そうなると、セルフケアとして「これはNOだ」という思いを動かしていく。それは語りの中で変わっていくことが多いので、聴くというのは大いなる支えになるのです。
医療者は、今は「事態」を動かすこと(治療など)を手助けしているのか、「思い」を動かすのを「聴くこと」で援助しているのか、自分の立ち位置をその都度、切り替えながら患者と接しておられます。素晴らしいことだと思います。
患者としては、この「NO」を受け取ってもらうと、すごく楽になれます。痛いこと、辛いこと、つまり「NO」な思いを、誰か1人でも受け取ってくれると、患者は「事態を動かす」(辛い検査や医療)に対して頑張れます。この「NO」を誰も受け取ってくれなかったら、患者は頑張れません。
「話す」「離す」「放す」
「はなす」とは「話して」「離して」「放す」ことです。最後の「放す」が大変で、自分の中で事態の意味が変わった時にようやく苦悩を手放します。「これでいいのだ」、もっと言えば「これがいいのだ」となった時に、私たちは苦悩を手放していく。ただし、意味の変更はそう簡単にはできません。いったんこうだと思うと、そこに別の意味があったとしてもなかなか見えてこない、時間がかかるんです。当事者の中で意味が変更されるまで、待たなければなりません。
「吐く」はすごい
しんどいことや辛いことも、消化できて腑(内臓のこと)に落ちたら自分の血や肉になる。つまり人生の学びになる。しかし、どうしても消化できないことは、食べ物と同じで吐くしかない。消化できない食物は吐き出すと楽になりますよね。
辛いことを吐き出す相手になってくれる人って「話を聴いて胸にしまっておいてくれる人」です。そういう人を選んで、辛いことを吐き出します。だから、はけ口になってくれている人は、選ばれている人です。
また、吐き切らなければ、その向こうに控えている新しい意味は見えてきません。答えは自分の中に控えていて、人は自分で出した答えにしか納得しません。
意思疎通での
非言語の重要性
伝達の方法には二つあり、言葉や文字などの言語的なものと言葉でない部分、つまり身振り・表情・態度などの非言語的なものがあります。コミュニケーションにおける言語的な伝達役割はたった2割、あとの8割は身振り、表情、話し方などの非言語的なもので伝えているのです。実はコミュニケーションでは非言語的なものが非常に重要な役目を果たしています。
健聴者は声を使うので、コミュニケーションは確かに楽ですが、相手のことをあまり観察しない。なぜなら、観察せずに作業しながらでも声が音として耳に入ってくるからです。その点、聴覚障がいがある人たちの観察力は優れています。ちょっとした動きや身振り、表情で相手の思いを捉えておられます。また、子どもは言葉でうまく伝えられないので、泣く、暴れるなどの態度や表情など非言語の部分を駆使して伝えてきます。つまり、コミュニケーションで重要なのは、語り手の声が「聞こえてくる」のではなくて、能動的に「聴く」、あるいは「見える」のではなく「観る」ということです。
対話に含む
四つのメッセージ
対話の中には四つのメッセージが含まれています。一つは会話の表面的なところにある状況説明や事実確認など。その下にその人の考えや意見が隠れていて、これは言う場合も言わない場合もあります。その下に、医師にどうしてほしいかという相手への期待が隠れています。これは非常に言いにくくて、遠慮がちに言わざるを得ません。そして、一番深いところに感情や気分が隠れていて、うまく言葉にはできません。心の深いところに入っていくほど非言語で伝えざるを得ない。非言語で伝えてきますから「観る」ことが大切になってきます。
これらのメッセージを「向き合う」と「寄り添う」に当てはめてみます。「熱が39度続いて、体中が痛い」という状況や事実に対しては、対処する、どうにかする。つまり、医療者は、その事態に向き合ってくれているわけです。起こっている事態に対して「熱が続いているんですね」と共感的に寄り添われても、「いやいや、どうにかして下さいよ」って話になってくるんですね。「もしかしたら、また再発したかもしれない」という39度の熱によってもたらされる不安や怒りなどの感情や気分に、皆さんは、寄り添ってくれているのです。
「妖怪人間ベム」から
実写版のテレビドラマ「妖怪人間ベム」に、永遠の命、生きる意味を考えさせられる深い話があります。
妖怪人間ベム、ベラ、ベロの3人は、自殺しようとしている初老の男を助けた。実は彼らは、過去にもこの男が若い頃自殺しようとしていたところを助けたことがあった。経営していた工場が倒産し、妻を亡くし、生きる希望を失った男は「こんな人生に何の意味があったのか、もっと早く死んでおけばよかった」とつぶやく。ベムは自分たちの正体を明かし「俺たちは、歳をとれないんです。人と関われず、何も生み出せない。だからせめて、俺たちにも生きている意味があると信じたい。なのに、あなたを助けたことが無駄だったとしたら…あなたの人生に意味がなかったと思ってほしくなかった」と思いを伝える。
ベムたちと男は、やり残したことを記したノート「事業計画書」に書いてあることを一つひとつ実行していく。ある日バイク便で男からノートが届き、そこにはこう書いてあった。「私の人生は、今まで何の意味もないものだと思っていたが、それは間違いだったよ。何も成し遂げられなくても、生きているだけで、少なからず誰かとつながっているんだ。だから人は、生きているということだけで十分なのかもしれないね。そう思えるのも君たちのおかげだよ。私は、君たちがいてくれて本当に救われた。心からありがとう」と。
隠れ家に戻ったベロは、「人間になったらいつか必ず死んじゃうんだよね、それでも人間になりたいって思う?」と問う。3人はそれでもやっぱり人間になりたいと語り合う。
永遠の命と
「今」 の意味
いつか終わりがくるから「今」に意味が立ち上がってくる。死ぬからこそ、生きる意味がある。死なないなら、生きる意味はない。もし、永遠に生きるならば、「今、ここ」には、もはや意味がなくなる。「300年くらい遊びまくって、次の500年くらいで寝まくって…次の1000年で…何する?」となり、この「永遠の命」に何の意味があるのかわからなくなる。
例えば、資格を取るための受験勉強など、永遠に生きるのであれば「今」やらなくてもいい。死なないなら医学や科学は求められないし、発展や努力は不要です。つまり、死なないのであれば、「限られた時間をどう生きるか」「やり残したことがあるのか、それが何なのか」と問う必要もないのです。死は、限られた生の時間に意味を与える契機なのです。永遠の命を持つ妖怪よりも限りある命を生きる人間を選びたい妖怪の思いにこそ、限られた生の意味深さが読み取れます。
誰かとの間あわいが
自分の居場所
もし、生きる意味がどこかにあるとしたら、それは誰かとの間(あわい)にある。生きるとは、「誰かといる」ただそれだけのことかもしれない。娘として、息子として、母として、父として、医師として、自己の生活のあらゆる場面でその都度、自己の意味が「~として」の中に立ち上がってくる。
この「~として」が成立するためには、そこに誰かがいなければならない。誰かとの間(あわい)に「~として」の私がいる。その都度、「~として」を成り立たせてくれる誰かとの間(あわい)が自分の居場所となる。
最後までその手を離さないでほしい
患者は一つひとつ諦めてきました。「家に帰りたかった」「同窓会があるんや…もう行けない」「学校に行きたかった」「修学旅行に行ってみたかった」と。しかし、最後まで諦めなくてもいいものがある。それは誰かとの間(あわい)。
何時何分にこの世を去ると知っている人は誰もいない。どこに人生のゴールテープがあるのかは見えない。見えないゴールテープに向かって走らなければならない。まるで暗闇を独りで走るようです。暗闇を独りで走るのは怖すぎる。だから誰かに一緒に走ってもらいたい。ゴールテープを切るその瞬間まで誰かといたい、寄り添ってほしい。
「あなたが死の瞬間まで残しておきたいものは何か」と聞くと、99%の学生が「スマホ」と答えます。スマホがあれば、家族に電話をかけられる。友達に電話をかけられる。SNSで世界とつながっていられる。最後の最後まで誰かとつながっていたいのです。
ある患者が言いました。「最期の瞬間まで、誰かが一緒に走ってくれたら、独りで逝く覚悟ができる」と。つまり、最後の最後まで「独りにしないでほしい」と、私たち患者は思っているのです。
【佐藤泰子氏 略歴】
2009年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。京都大学博士(人間・環境学)取得。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科研究員。京都大学、京都看護大学等で死生学、医療倫理、コミュニケーション論等の授業を担当。
コミュニケーション、ケア、倫理、死生などを研究していく中で「人が苦しいとはどういうことか」についての解明が必要であることに気づく。そこで「人はなぜ苦しみ、そこからどのようにして新しい一歩を踏み出すのか」を構造的に理解するためのシェーマ「苦しみと緩和の構造」を構築した。「苦しみと緩和の構造」、哲学、倫理学、死生学をもとに援助のあり方を探る。