見つめ直そうWork health(10)支えた人たち
吉中 丈志(中京西部)
熊本県八代市の興国人絹パルプ(以下、八代興人)で起きた二硫化炭素(CS 2)中毒の問題に取り組んだ人に岡田聖さんがいる。労働組合の役員をしていた人で、当時は熊本民医連の職員だった。八代興人では、1964年に2人の労働者がCS 2中毒と認定されたが、それから30年余が経過して41人(1996年)になった。被災者を救うのに、実に息の長い運動が必要とされたことを物語っている。被災者には生活もあり闘病もある。途上で亡くなる場合もある。岡田さんは患者を励まし、労働者に声をかけ、医師や弁護士などの専門家をつないでたたかってこられたのだ。こうした支えがなければ、被災者たちは決して認定を勝ち取ることはできなかった。こういう人を「組織者」という。岡田さんは痩身で背筋が伸びていて、前を見つめる姿には孤高の人といったイメージがあった。
水俣病の解明に一生をかけて取り組み、筋を曲げなかった医学者として原田正純先生はよく知られているが、実は、原田先生は熊本民医連の医師たちと協力して八代興人のCS 2中毒症の解明にも取り組んでおられた。私の脳裏には岡田さんが原田先生と重なって浮かんでくる。よく似た風貌のせいかもしれない。岡田さんはそういう人だった。
宇治ユニチカ工場では1985年に2人がCS 2中毒と認定され、裁判が終結する1997年までに12人になった。12年を要している。裁判に訴えた時の原告は3人だったが、後に2人が加わり5人になる。その間に亡くなった被災者もいる。裁判で証言してくれる労働者も出てきた。被災者や家族を支えた人たちの輪は広がった。地域の労働組合はもとより、地域の住民の支援があった。医師や弁護士は手弁当で協力した。熊本と宇治との交流、慢性CS 2中毒をテーマにしたシンポジウムなどが何度も行われた。息の長い運動が裁判所に会社の責任を認めさせて和解につながったといえる。
縁の下の力持ちというが、この運動を支えた「組織者」の姿が宇治の場合にもあった。上京病院の事務職員だった行松君(私と同世代だったのでこう呼んでいた)という人である。行松君は柔道家と見まがうような威風堂々とした体格で、色黒だった。一見するとこわもてなのだが、細かいことにも気がつくやさしい人柄で、どこかシャイなところもあった。後に民医連のあさくら診療所ができたことを契機に、医療生協の専務となる。「この運動を始めた頃、うちの娘はまだ保育園に行っていました。その娘が今は、十八歳になっています。早いなあという感じで」と自分の人生と被災者の人生を重ねて振り返っている。「一番印象に残っているのは、Yさんの行方不明騒動です。(中略)あの時いなくなったことをYさんの奥さんに伝えにいくのがどんなにつらかったか」と我がことのように心を痛め、「まだいっぱい埋もれている人がいると思うんで、それを救済」したいと述べていた(以上はユニチカCS 2裁判闘争報告集より)。やさしい眼差しがそこにはある。
組織者という言葉をカッコでくくったのは、固有名詞性を強調したいためだ。「組織者」には優しい心があり、筋を貫く強さがあり、撓やかであった。彼は定年を前に病気に倒れてしまうが、チーム医療、多職種協働の時代にあって「組織者」の存在はますます重要だと思う。