義務の視点からの厳密思考
宇田憲司(宇治久世)
自分の次に世界で一番愛する妻とも長年添い遂げ、二人の会話もきしみ始めた。
今は昔、密かに尊敬していた昭和天皇が崩御される3カ月程前、妻が38歳、私が39歳の秋、宇治の地で小さな整形外科・理学診療科・小児科の無床診療所を開設した。
当時はまだ若くて、今みたいに右母指の先端やら両足底がしびれ始めたり、術後の右股関節周辺に自発痛が生じて消炎鎮痛剤テープを添付したり、経口剤を服用するということもなく、いわゆる老人の痛みがどのようなものか心から解ることはなかった。しかし、還暦を過ぎ、更に数年の歳月が流れ、二人ともいまや「高齢者」と分類される。
当時は、「下医は病を治し、中医は人を治し、上医は国を治す」などと意気込み、本来は自己の体力・自然治癒力を向上させ回復に至る医療を行うべきで、それには「適度の運動、適度の休養・睡眠、適度の栄養」で、如何にこの体力向上を図って地域医療の推進に貢献すべきかと考えていたので、過度の治療処置は控える傾向にあった。ある高齢婦人が、頻回に鎮痛の注射を要望されるのに困り、「週に1〜2回までで今日はできません。健康によくありません」と断ったが、その時、妻は「直ぐしてあげればよいのに!」と診療しながらの発言であったが、やはり数日待ってからした。それ以後、「してあげればよい」との言明が何を意味するのか、どの範囲の行為規範を意味するのか気になり、考察した。
この言明は、「して」「あげれば」「よい」の三つから構成されるが、まず、前2者を「為す」(Tat:T、為)に統合して、「よい」は法や倫理や医学的準則が「許す」(適法など:P、許)と解して、「許可」をA:「為すを許す:許為、してよい、すればよい:T⇒P;⇒:ならば、含意、条件」とし、「免除」をB:「為さざるを許す:許不為、しなくてよい、しなければよい:T⇒P;:でない、否定」とした。「作為義務:当為」は、C:「為さざるを許さず:不許不為、しなければならぬ:T∧P;∧:かつ、連言」とし、「禁止」は、D:「為すを許さず:不許為、してはならぬ、T∧P」とする。「不」で否定される関係は互いに矛盾し、各々の連言も各々の否定の連言も成立しない(偽)。許為Aと不許為Dの間、許不為Bと不許不為Cの間は、漢文の命題構造から自明に矛盾する。また、不許不為Cと不許為Dは反対で連言は成立しない(和文の言明から自明)。
上記を前提に複合命題の真理値を検討すると、A∧C、B∧D、A∧Bが導出される。これをベン図で表すと、Aの円とBの円が一部で重なる5つの領域から成ることが判る。つまり「してよい(A)」場合は、「しなくてはならぬ(C:A∧C)場合」と「してもしなくてもよい(A∧B)場合」から成り、妻は前者の義務を主張したかったのかもしれぬが、後者でもよいと判った。後日そう告げると、そんな会話はしたくない、とのことであった。
行為の有無と許容の有無の関係
A∧B(してもしなくてもよい)
A 許為(してよい)
B 許不為(しなくてよい)
D 不許為(してはならない)(B∧D)
C 不許不為(しなくてはならない)(A∧C)