続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<32>

ねえや

 太宰治の「津軽」を読んだ。何回目だっただろうか。ぼくは太宰の初期の作品が好きだ。「斜陽」「ヴィヨンの妻」「人間失格」等々。世評の高いものより、この昭和19年、36歳の時の彼の人生で僅かな静謐のひとときが極めて貴重ではなかっただろうか。この「津軽」のクライマックスは、本人も自覚して構成し、万人の認める太宰の実母の故障のあと、母親代わりに保育してくれたお手伝いさんとの再会のシーンであろう。津軽の奥の集落まで旅行の最後におもむいてお手伝いさんたけと、たけの子の運動会の応援席のなかで相まみえる。左の瞼の上にある、小さなケシ粒ほどの赤いホクロ、これが太宰の記憶に残っている彼女の目じるしだった。

 彼の33年前の追憶であって、彼の純情が滲み出ていて美しい。

 ぼくの家では、と書くのはあまりにも高慢である。父は田舎医者であり、何も財産らしきものは持っていなかった。だが、お手伝いさんは常に一人いた。出身地はそのほとんどが熊野郡、現在の京丹後市久美浜町の出身だった。ぼくの物心ついてからは、いつもねえやがいた。看護婦はいなかった。

 父が診察し、母が調剤をした。

 今になっていろいろ話を聞くと、熊野郡は全く農家の集落だったが、「口べらし」といったことではなく、高等小学校を卒業すると一応峰山、網野、口大野等々に住み込みの仕事に行くのが世間の常識だったらしい。他所の飯を食って世のなかを知れということが集落の常識だったようだ。出稼ぎの人の実家の方が奉公先よりも財産持ちであったようなことも間々あったらしい。

 ぼくの家のねえやさんはNさんと言った。今でも存命かどうかは知らない。ねえやはぼくの近しい友達の一人だった。ぼくたちの時代、小学校6年生の時、修学旅行と称し、二泊三日の小旅行があった。お伊勢さん参り、あと奈良・京都と廻る。ぼくの時は客分でNさんが同伴してくれた。ねえやを雇っている家は生糸縮緬商その他多くあったが、その女性を息子の旅行につけてやるとは前代未聞であった。Nさんはおとなしく、特別ぼくにつききることはなかった。夜、休むときも女生徒たちと一緒で、部屋のはしの方に、それでも一人前の布団を貰って寝ていた。生徒たちは二人一組の寝具だった。ただ一度だけ、ぼくが転んで脛をすりむいたとき、見様見真似だったろうか、きちんと手当てしてくれた。古いアルバムに修学旅行の写真が一枚残っていて、奈良で鹿と一緒のものだったが、Nさんはぼくから離れ、一番端に立っている。

 そのNさんが何年ぶりかに訪ねて来てくれたのである。大宮町K集落の親戚の人が死亡したので葬式に行ったその帰りのことだったらしい。彼女は元気だった。80歳前だったのだろうと、想像をする。いろいろな昔語りのあと、Nさんはぼくの姉のことに言及した。ぼくの長姉が医師と結婚し、京都市内で開業をした。続いて女児を二人出産し、誰も手助けする人がなく、父はNさんを姉夫妻の許に送った。続いて次姉も未婚だったので応援に行った。その時の細々とした状況を初対面の家妻に伝えたのである。姉が結核で死亡したのは昭和15年、ぼくが宮津中学3年生の時だから、Nさんは二十歳前後だろう。家妻の話によると、ぼくの姉二人への批判はなかなか厳しかったそうである。大人の他人の目で見据えていたのだろう。ぼくが直接聞いたのではないから、Nさんのことをあれこれ言う気持ちはない。ただ太宰のようなお手伝いさんへのある特定の気持とはほど遠い。何回も繰り返すがぼくは愚かな男である。

 駄足だが付記しておく。太宰の津軽ものは他に「帰去来」「故郷」の二作がある。同時に読み返したが、やはり「津軽」が抜群である。

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