続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)(3)
蕪 村
ぼくが蕪村に凝っていたのは、昭和40年から平成6年頃まで約二十年余りになる。初めて蕪村に会ったときは楽しかった。夢中になって、俳句、画作にうちこんだ。合計5冊蕪村関連の本を自費出版したが、最後は出版社が倒産してしまい、ほんの一部しか製本化されていない。そしてお金は一切前金払いだった。最初の『蕪村の丹後時代』はほぼ全国の店頭に置かれた。鹿児島の方からお手紙をいただいたことがあった。
だが研究を進めていくと、国文学の素養が全くない。基礎の勉強をしていないことが致命傷になった。平成6年10月29日、土曜日。宮津市の郷土資料館で「与謝蕪村の文学とその周辺」と題して講演をした。その2週間前に京都大学文学部教授の佐々木丞平氏が「与謝蕪村の絵の世界」とのお話をされた後だった。当時の宮津の資料館の資料課技師だった伊藤太氏とは頻回に会って連絡を取った。氏にはいろいろと御指導をいただいた。ただこの蕪村展のとき、多くの蕪村学者に接触し、お話を聞いたりして痛切に感じたのは己の無学であった。まず第1に古文書が読めない。従って先輩各位の活字化された研究文書を読むだけの蕪村好きに過ぎなかったのである。研究イロハのイの字にも相当しない。ぼくは蕪村を断念した。そして平成22年2月、宮津市で蕪村祭が行われ、ぼくは久し振りに会場を訪れた。佐々木先生御夫妻、伊藤氏に再会を果たした。ただし、お話はできなかった。また宮津蕪村祭の主宰者、茶六旅館の徳田氏とも再会し、語り合うことができた。
蕪村を読んでいて、一つどうしても心残りのことがある。これを書いてしまおう。蕪村の江戸時代、元文3年9月12日。百韻(いん)付合。
蕪村23歳の作、名前は宰町である。
引て見る茶臼(ちゃうす)も妾(せふ)は力業(ちからわざ) 宰町
蕪村全集2巻 連歌 23ページの頭注。
○引(ひい)て見る茶臼 遊女・芸者などが客がなく暇であることを、「茶を挽く」という。前(まえ)句(く)は家(か)督(とく)に一家寄(よれ)ば六(ろく)哥(か)仙(せん)で家督(家長)の妾の体。主人もしばらく姿を見せず。茶臼をひいて暇をつぶす。茶臼(類船集)。力業から、妾のヒステリー気味の状態がうかがえる。
以上はもっとも当たり障りのない、無難な教科書的な解説である。茶臼を広辞苑で引いてみる。「ちゃ―うす(茶臼・茶碾)葉茶を碾(ひ)いて抹茶とするのに用いる石臼。古来、京都府宇治朝日山の石を賞用」と、あり付図まで書いてある。続いて、茶臼芸、中途半端で一芸として通らないもの。また一芸だけにすぐれていること。ここまで書くとやや茶臼の芸がぼんやり浮かんでくる。つまり茶臼をひくとは隠語であり、猥せつな言葉なのである。蕪村若年の頃、笑いとばして付けたものだろう。蕪村にもこんな時代があった。蕪村とは難しい天才であった。これだけは確かであったと思う。