特集1 中京小景
地域紹介の第4弾は「中京」、ゲストの宮本和則氏(一級建築士)から、京都の中心街に関わりの深い景観問題と三条通周辺の近代建築の話を聞くとともに、中京東部の大澤直・西村利朗氏、中京西部の岡田楯彦・島津恒敏氏に対談していただいた。
(ゲスト)宮本 和則氏(京都建築事務所、一級建築士)
京都の景観規制について
宮本 京都の景観規制の歴史をざっとみていきますと、まず1930年に風致地区の指定、56年には屋外広告物条例が制定されました。64年竣工の京都タワーは東寺の塔より高いため、相当反対があったということです。
67年には、古都保存法の制定に伴い、歴史的風土特別保存地区が条例で定められました。72年には市街地景観条例が制定され、73年に高度地区が指定されました。これは田の字型プランといって、河原町、烏丸、堀川、御池、四条、五条に面したところは45mまで、その中の商業地域については31mまでという、非常に大雑把な規制でした。76年には伝統的建造物群保存地区が指定され、産寧坂や鳥居本、祇園の白川あたりなどが面的に保存されることになりました。
80年代には、公園規制を外して強引にホテルを建てられるようにした宝ヶ池プリンスホテル建設問題、高層への建て替えで仏教界ともめた京都ホテル問題が起こりました。90年の京都駅ビルコンペでは、京都駅南側を高度利用するために60mという規定が設けられました。
95年には、市街地景観整備条例・自然風景保全条例が制定されました。96年のポン・デ・ザール架橋問題では、先斗町の女将さんたちが反対運動を展開し、そういう動きと関連して景観規制区域が拡大されました。05年に国の景観法が施行され、景観による観光誘致へと方向転換される中で、07年に新景観条例が制定されました。
今回の新景観条例は、50年、100年後の京都を見据えた将来計画であり、建物は私有財産であっても景観は公共財産であるということを、やっと公に言い出しました。
新景観政策は、建物の高さ、建築のデザイン、屋外広告物、眺望(日本で初めて導入)、歴史的な街並みの五つの柱と、それらを運営するための支援制度から成っています。建物の高さは、田の字型の沿道45mまでのところを31mまで、中の31mまでのところを15mまでに規制し、勾配屋根をかけなさいということになりました。
市街地の美観地区のデザイン基準は、山ろく型(東山の際や東福寺周辺)は2階建て和風建築、山並み背景型(鴨東地域など)は少し高くてもよい(15mくらいまで)が勾配屋根をかけること、岸辺型(白川、鴨川、伏見の運河沿いなど)もやはり15mくらいまでに抑えること、旧市街地(中京など)は沿道だけでも2階建ての雰囲気を残し、マンションなどはセットバックして勾配屋根をかけること、歴史遺産型(御所や二条城などの周辺)は寺院の大屋根などの眺望を壊さないこと、沿道型はほとんど大きな規制はなく、勾配型屋根をかけるか屋上緑化することなどとなっています。特に眺望規制は、ある視点から東山・大文字などを臨んだときに、ある角度の範囲内に眺望を阻害するような突起物が出るような建物を建てるなという、画期的なものです。
今回の景観条例の評価できる点としては、ダウンサイジングを誘導する高さ規制を設けたこと、50年先を見込んだ長期的政策であること、市街地全部を対象としたこと、市街地からの眺望規制を導入したこと、屋外広告物も厳しくしたことなどです。
逆に問題点としては、細部が基準に合っていれば全体のデザインがよくなくても認められるということ、過度な制約により優れて前衛的なデザインが排除されるということ、デザイン基準の拠り所である「和風」ということばの内容があいまいだということなどです。
私は、(1)地区ごとにその景観特性、誘導したい景観を可能な限り言葉でガイドラインとして示す、(2)規制基準は建物の全体ボリュームと高さ、壁面線の後退距離、使用材料と全体の色合いを定めるに止める、(3)デザインは自由に提案させた上で、住民より選ばれた住民代表と専門家からなる審査会に判断を委ねる、(4)基本的な基準の特例措置は認めない、(5)高さ規制と共に階数規制を行い、将来の転用活用を睨んで階高を確保させる、ということを提案しています。
京都市景観行政の経緯
1930(昭和5)年 風致地区の指定
1956(昭和31)年 屋外広告物条例の制定
1964(昭和39)年 京都タワー竣工
1967(昭和42)年 古都保存法による歴史的風土特別保存地区の制定
1972(昭和47)年 市街地景観条例の制定
1973(昭和48)年 高度地区の指定
1976(昭和51)年 伝統的建造物群保存地区の指定
1982(昭和57)年 宝ヶ池プリンスホテル建設問題
1986(昭和61)年 宝ヶ池プリンスホテル竣工
1988(昭和63)年 京都ホテル総合設計制度適用
1990(平成2)年 京都駅ビルコンペ
1994(平成6)年 京都ホテル竣工
1995(平成7)年 市街地景観整備条例 自然風景保全条例の制定
1996(平成8)年 ポン・デ・ザール架橋問題
1996(平成8)年 景観規制区域の拡大
1997(平成9)年 京都駅ビル竣工
2005(平成17)年 景観法施行
2007(平成19)年 新景観条例施行
三条通り周辺の近代建築
宮本 三条通り周辺の近代建築を紹介します。
【富田歯科医院(1)】 外側は全く和風ですが、中は大正か昭和の初めにあめりか屋さんが改修されて洋風になっています。待合室は洋室で暖炉があり、床は寄木、ガラスに一部ステンドグラスなど、非常に面白い建物です。
【1928ビル(2)】 富田医院の隣にある、元毎日新聞社の建物です。名前のとおり1928年竣工、京都大学に建築学科をつくった武田五一さんの設計です。若林広幸さんが、これが売りに出たときに保存するために買われて、中を改装されました。デザインのモチーフとしてはセセッション(分離派)建築で、水平線を強調し、様式建築的な凸窓、中世のお城の物見台のようなものや星型が特徴的な、モダニズムへの過渡的なデザインです。
この建物と新風館ができたのをきっかけに三条通りの近代建築が活用され、四条から三条の間の縦の通りや、寺町から西洞院あたりまで、非常に賑わいが増しました。
【SACRAビル(4)】 元は不動産貯蓄銀行で、1916年竣工、煉瓦および木骨煉瓦に石を貼っている建物です。階高が高く、入った正面にシンボリックな木造階段があります。外壁の石の厚さは10cm以上で、非常に素材感があります。
【日本生命京都三条ビル(5)】 1914年の建物で、煉瓦造、辰野片岡事務所の設計です。角の部分だけを残して改修されています。屋根は本物のスレートで、これも外壁の石が格段に厚く、塔の部分が非常に印象的です。
【京都文化博物館(6)】 元の日銀で、辰野金吾さんの代表建築です。クイーン・アン様式の変型といわれ、煉瓦に対して御影石の白線をたくさん入れるのが辰野さんのオリジナルデザインです。四隅の塔の部分やアーチが特徴的です。これは建物をまるまる残し、活用の仕方は一番よい形です。
道路からの後退部分が、カフェになるなど街の広がりとなっています。この隣のマンションも、京都市が「ぜひ壁面線を揃えてほしい」と申し入れたので後退し、そうするとその横の河合塾やマンションも後退して、街並みが揃うことになりました。
【中京郵便局(7)】 1902年に逓信省営繕課が建てたものです。凸窓が特徴的な、ネオ・ルネサンス様式の宮殿建築です。外壁だけを残し、中は鉄骨補強をしています。
三条通りの景観を中京郵便局から見た場合、スカイラインが揃って壁面線が少し下がっていて、これで電線が地下化すればもっとすっきりするのですが、コストの問題で難しいです。
【平楽寺書店(8)】 オーナーに思い入れがあって残しておられる珍しい例です。登録文化財に指定されています。1927年の建物で、鉄筋コンクリートですが、柱は石を使っています。
【新風館(9)】 元は京都中央電話局で、吉田鉄郎さんの設計、1930年くらいの建物です。コンクリート造に、四丁がけと呼ばれる非常に大きなスクラッチタイルを張っています。これは、1928ビルのセセッションからもう少しモダニズムに傾いた時期のものです。元々ロの字型の中庭があったところを、イギリスの建築家が監修して、逓信省営繕の流れをくむNTTファシリティーズが改修しました。
【元第一勧銀京都支店(10)】 元は1906年の建物で、私たちはなんとか残してほしいとお話ししたのですが、結局は潰されました。施工した清水建設も、解体した材料を残しておけば明治村などに再現できると要望したのですが、お金がかかるのでそれも拒否され、その後できたのがこのレプリカです。これを造るなら、どうして保存してくれなかったのでしょうか。煉瓦部分はタイル、漆喰部分はFRPで全部偽物なので、素材感が全く違い、見た目が軽いです。
【旧住友銀行京都支店(11)】 かつてあった建物です。これをホテルの玄関にして後ろに高層の宿泊棟を建てれば、よいものになっただろうと思うのですが、今は外壁にあったレリーフだけが残っています。
【革島医院(13)】 あめりか屋さんのデザインで、1936年の木造の建物です。中へ入ると木のカウンターがあり、土間があり、円形の塔が印象的です。ここは、オーナーが残そうと思っておられます。開放しませんかという話もしていますが、まだお医者さんをやっておられるので、なかなか難しいです。
【ウイングス京都(14)】 元銀行のファサードだけを残したもの。1908年に今の清水建設が施工したレンガ造の建物でした。屋根の装飾は銅板打ち出しです。
【紫織庵G】(新町三条下ル) 和風の数寄屋建築ですが、一部の洋館だけが武田五一さんのデザインです。中には、竹内栖鳳デザインの、東山三十六景の欄間が残っています。
【三井銀行京都支店】(烏丸四条) かつての建物の角の一部分と、貴賓室の内装だけが残されています。
【三菱銀行京都支店】(烏丸四条) かつてあった建物です。近くにあった三和銀行、富士銀行もなくなりました。
【京都市役所A】(中京区) 幸いにも、地下鉄で使い過ぎて、建て替え費用がなくなったということで残っています。10回目くらいに「市民が選ぶ文化財」として指定すれば潰せないだろうと考えています。武田五一さんの代表作で、RC造、三連窓をモチーフとしたゴシック様式風です。
【京都府庁B】(上京区) この建物を潰すという話があったとき、当時府職員だった山添さんという女性がぜひ残したいと動かれたのが、私たちの運動のきっかけです。今は保存がはっきり決まって、市民が会議をしたりする施設として使われています。1904年の建物で、アーチが半円のルネサンス様式です。
【旧京都中央電話局上京分局C】(上京区) 新風館と同じ吉田鉄郎さんによる、ドイツの田舎風のデザインです。今はスーパーが入って、上がスポーツジムになっています。
【京都府立図書館E】(左京区) 武田五一さんの代表作で、今は後ろが高層ビルになっています。これもだいぶ保存運動をして、私たち会員で建物をスケッチし、御池のギャラリーで展覧会をやったりしました。保存された部分は、地下まで吹き抜けになっています。
【京都大学人文科学研究所D】(左京区) 武田五一さん監修の、修道院建築を模した研究所です。中庭があり、回廊があり、回廊に面して部屋があるというものです。実際の設計は、武田さんの弟子の東畑さん(東畑建築事務所の創始者)です。当時はやりのスペイン風の建物で、これも残してくれるようです。
市民が選ぶ文化財
宮本 私が参加している「京都の近代建築を考える会」では、市民が愛着を持っているものを勝手に「市民が選ぶ文化財」に選んで、活用してくれている方々を顕彰しています。できるだけ登録文化財や重要文化財などになっていないものを選んで、毎年1回、プレートと顕彰文をお渡ししています。
第1号は、三条通りの旧家辺徳時計店(3)です。1890年の建物で、元は時計塔があったということです。楕円アーチが珍しい、木骨煉瓦造です。
第2号は、元は鐘紡の工場のボイラー室だった高野団地の集会所F(左京区)で、1907年竣工、中は鉄筋コンクリートで補強しています。
第3号は、元々は長楽館で有名な煙草王が設立した村井銀行の支店の一つH(下京区)で、今はレストランです。煉瓦造の上にモルタル塗りで石のように見せており、屋根は木造です。
第4号は、元山口銀行から北國銀行になり、今はレストランになっている建物(12)で、辰野金吾さんの事務所で設計されたRC造です。
第5号は、元相互銀行の壽ビルディングI(下京区)です。RC5階建てですが、外壁の1階部分が石張りになっています。
第6号は、堀川北大路の日本聖公会京都復活教会J(北区)です。ヴォーリズが設計したゴシック様式の建物で、塔の部分が印象的です。内装は木造です。
街並みの移り変わり
西村 京都の街のあり方について、古いものを残したいというのは京都の人はみんなもっていますが、それをすべての地域にかぶせるのがいいかどうかは疑問です。例えば先ほど見てきた洋館建築をもし大正の初めに一切認めていなかったら、ああいうものはなかったわけですし。最初の千年にできたよい街をただ保存するだけでなく、自由な発想で次の千年はもっといいものを創るほうが、京都らしいと思います。
(中京東部)西村 利朗氏
島津 京都の町家の家並みは、かつては一つの絵になっていたけれども、中京では戦後消えていって、家並みとして残っている地域はもうあまりないでしょうね。
(中京西部)島津 恒敏氏
宮本 歴史的風土保存地区だけですね。
西村 高さ規制が京都の産業に与える影響はいかがでしょうか。
宮本 JRから北については、産業には特に影響はないと思います。平均的な容積率も150%くらいしかなく、実際の不動産オーナーに聞くと、5階建てくらいが一番ペイするらしいです。
西村 しかし、一番中心の商業地まで規制をかけると、結局は京都が寂れる方向に行くのではないでしょうか。
島津 昔は、中京の街並みからも東山は見えたんでしょうね。
岡田 今はほんとにでこぼこで、街並みが美しくないですね。
(中京西部)岡田 楯彦氏
宮本 京都は緑地が三方残っていて、それに対する眺望を考えると、高い建物は目障りなんですね。少なくともJRから北では、あまり高い建物はやめようというのが一つのコンセンサスでしょうね。
大澤 中京東部は既に45mの建物に取り囲まれているのに、そこへまた60mということになると、京都としてはふさわしくないと思います。建築家は、規制されたらまたいいものを考えるんですよ。
(中京東部)大澤 直氏
西村 私は、新しいものを作り出すのが本来の京都だと思います。過去に作られたものを保存することは大切ですが、新しいものを創造するという京都人の精神を失ってはいけません。
宮本 だから低層で新しいものを造ればよいので、全てに屋根をかけろとか、木造・和風のデザインをビル建築に持ち込む、それを強制するという今の景観条例はおかしいと思います。
大澤 景観を維持するのに、補修費用をどうするかという問題もありますね。
宮本 登録文化財は、持ち主が申し出れば登録されて、改修の設計費用への一部助成や税金の免除がありますが、微々たるものです。一番問題なのは相続税で、これを何とかしないと、いい建物が全部つぶれていきます。
岡田 100坪が25坪4軒になったりね。
宮本 2階建てのところに10mのビルが建つのも、売らざるを得ないから売る、不動産屋はペイしないと困るので必要以上に高いのを建てて売り抜ける。祇園の南側が残っているのは、建仁寺さんや歌舞練場が押さえているからです。建物も、外装は変えられません。
島津 だから、祇園の南側はあまり高い建物がないのですね。
中京の医療事情と教育事情
――建築の話もつきませんが、医療の関係ではいかがですか。
大澤 中京東部医師会は、設立から63年ほど経っています。昔から開業している先生が多いですが、最近はずいぶん変わってきています。この10年で医療ビルが建ったりして、今年は新規入会が15人でした。
島津 中京西部はそれほど新入会員はいませんが、二条駅近辺にたくさんできましたね。
西村 医療コンサルタントがうまくコーディネートしてくれればいいのに、自分が仕事のしやすい街中にマーケット状態と関係なく医院を引っ張ってくるので、結局医療の方向を歪めている部分もあると思います。今後倒産が増えるのは中京区が一番でしょうね。需給バランスのこともあるし、だいたい家賃が高い。
島津 医療ビルは、だいたいどのくらいの家賃ですか?
西村 大きさによりますが、普通は月50万円くらいですね。設備投資も合わせると、最初の十数年は月々だいたい100万円支払うというのが、一番多いパターンでしょう。それが過密地帯だと、返していくのは非常につらいですよね。
大澤 私が入会した頃は、月1回ホテルフジタで昼食会というのがあり、長老のような先輩の先生方と2時間くらい食べてしゃべって、親睦を深めていました。それが100回続いて終わりましたが、お昼ご飯を食べに行こうかという余裕があったんでしょうね。
岡田 私のあたりは、昔はよく友禅染を堀川で流していましたが、次から次へと商売をやめていっています。10階建てのマンションができて、人口は変わらないのですが、どんな人がいるかは全然わかりません。
大澤 中京東部も一時的に過疎化しましたが、マンションができて、御所南・高倉小学校の人気が出て、子どもたちの親がどんどん入ってきました。
西村 それは、呉服会社がつぶれた後地にマンションが建ち、交通の便がよい中心地に塾ができて、そこに通うために優秀な子がマンションに移り住み、御所南や高倉に自然に集まったわけです。すると、あたかもその学校の教育が優秀であるかのようなイメージをもたれるようになって、またそこに入ろうという人がさらに出てくるということですね。
大澤 それでも、やはり御所南と高倉の教育内容をみていると、教員のレベルが高いですね。堀川高校も新しい方式でやっていますし、この近辺の学問に対する意識は高いです。
島津 私のあたりは古い中京とは違って、サラリーマンとか零細企業・商店の子どもが多くて、庶民相手の医療ですね。近くの市立病院と連携しながら診療しているのでやりやすいです。
西村 昔は西部には病院があるけれども東部はほとんど地元の開業医ばかりで「ファミリー」という感じでした。最近は、ビル診ができたりして、新しい人が増え、変ってきました。
大澤 まあ、若い層ができてくるのは、ある意味いいことでしょうね。
島津 大澤先生のところなんかは、子どもの頃から、昔ながらのお医者さん、それぞれ名医がおられますね。
大澤 大学で教授までして開業されて、大学に通っていた患者さんが先生を頼ってくるとか、医者と患者が密接な感じがしていました。
岡田 このあたりは、昔はお金のある商売人が多くて、特に繊維関係は景気がよかったですね。
西村 昔は明倫小学校と日彰小学校はお金持ちの学校で有名で、「ピアノが買いたいよ」という回覧を回したら、すぐにピアノ代が集まるということでした。
祇園祭りの賑わいと地蔵盆の衰退
――(対談日から)間もなく7月で、祇園祭で賑やかになります。
岡田 祇園祭は、昔はもっと細い通りを通っていましたが、今はもう、観光客用のお祭りになりましたね。
大澤 17日だけのように思われていますが、7月1日から31日までがお祭りですからね。10日に神輿洗、17日の神幸祭に山鉾巡行の終わった夜に三基の神輿が出てきて、それぞれのルートを通って四条寺町の御旅所で1週間お休みになります。
本当に好きな人は、新町通りの狭いところを屋根にぶつかりそうになりながら鉾が通るのを見るんだそうです。
島津 鉾を運営する住民の数はどうでしょうか。
大澤 鉾町が衰退して若干難しいところはあったけれども、今はマンションの方たちも入ってもらって、うまくやっているようです。引っ越して行ったけれども、その時には戻ってくる人もいて、わりに柔軟になっています。女性が乗ってはいけないというところはまだありますけれども。お神輿も、西御座は本当は二条の材木屋さんのところのものだったのが、戦後に経済的にもたないということで、錦の組合に移ったのが1952年ですかね。重すぎて担げないので下に車が付いている、豪華なお神輿です。24日の還幸祭にまたお神輿が御旅所から出てきて、町内をずっと回って八坂神社に帰っていくんですよ。お休み処でおもてなしをするんですが、うちはルートで1番目なので、酔わないように小さいビールやら、スイカ、ジュースなど用意します。
西村 一つ問題なのは、お稚児さんにしても斎王代にしても、なる人の経済的負担が、3千万円とか5千万円とかものすごく大きい。京都の祭りなのに、なぜ個人がそこまで負担しなければならないか、そこはちょっとおかしいと思うんですよ。
岡田 そこまで出せる人はだいたい決まってますね。
島津 昔はステイタスの象徴だったわけですね。
大澤 市民が支えるという意味では、できる者がやればいいとは思うんですけどね。お稚児さんは別格なんですよ。選ばれた人でね。
岡田 だいたい、次はここ、次はあそこというネットワークがあるんでしょうね。
西村 昔は、一時的に10万石の大名資格が与えられたらしいですね。それと、全ての鉾にお稚児さんが乗ってましたね。
――その他にも昔と変わってしまったことなどありますか。
岡田 昔は、地蔵盆とか盆踊りをよくやっていたんですけどね。
島津 地蔵盆はまだ地域にありますが、子どもがそんなに喜ばなくて、年寄りが集まるような場になっている感じがします。
岡田 自分の少年時代を思うと、盆踊りなどは非常に楽しかったですね。交通を遮断して、真ん中に太鼓を置いてやぐらを組んで、周りをみんなで踊ったものです。
島津 岡田先生のあたりは、染物屋さんの衰退が決定的ですね。私の同級生も、染物の仕事してた人はどんどん転職していっています。大澤先生のあたりは商業地域として復活して、マンション人口も増えていってますね。
大澤 ただ、マンションの場合は町内に入ってないんです。
西村 何十件かを超えたら、マンション全体として一つの町内と認められるんですよね。
大澤 そうすると、連合会に加盟するんですね。まあ、世の中、変わったということで。
――長時間にわたり、ありがとうございました。
夏空突く月鉾(編集部)