続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(37)
特攻
父がまだ元気だったから、昭和19年頃だったろうか。河辺(こうべ)村(現京丹後市大宮町河辺)に飛行場があり、今で言えば中学3年生位の年齢だろう少年たちが飛行機の搭乗訓練をしていた。ここの訓練をへて特攻隊に配属されたのだろう。休日には3〜5人位がグループになり、一般民家を訪問をし、戦時下だからなんの供応もできないのだが、近くに独り者の女傑がいて、配給の米を提供して自分は食べずにいたというエピソードが流れた。
今でも残っているが、離れの二階建四間を父は提供し、毎週少年たちはやって来たが、当時そこは物置兼用で、ぼくの古い受験用の雑誌とか、中学の教科書なども置いてあった。彼等はそれを読み漁り、ぼくが宮津中学から松江高校に進学したことまで知っていた。
某日、少年の一人とその父親が挨拶に来た。
「訓練が終わり、第一線に出撃します」
少年の父は未だ若い、おそらく農家だったと思うが、息子とならび応接に出た父に正座で対していた。なぜぼくがその場に居たかについては記憶がない。大学に入ってからか、まだ高校時代だったか、とにかくぼくは短歌を作っていた。とっさに一首詠んで、メモ用紙で父に渡した。敗戦後、思うことがあり、短歌作品は一切を焼却したので全く残っていない。後の七・七は覚えている
神にておわす 美しきかな
父は取っておきの色紙を出し、墨書きして手渡した。少年の父親はおしいただいて読んでくれたあと、
「家宝にいたします」
言い残して去って行った。少年は沖縄の海で特攻隊員として死亡したか、いや戦争末期だったから乗る飛行機がなく、九死に一生を得たかもしれない。これはぼくの小さな戦争犯罪だろう。さもしい青春への苦い追憶だろうか。特攻は悲惨な過去である。万一少年が生きていたら70代の後半だろう。ぼくにしても今の齢まで生きているとは夢にだに思っていなかった。
詩人の中原道夫氏とは、天橋立で1回だけお会いした。氏の子どもの頃、近くに同じような飛行場があり、子どもは少年たちから沢山、チョコレートやキャラメルを貰った記憶がある、と言っておられた。河辺村の少年たちは、もう1つ前の練習生だったろうか。チョコレートとキャラメルの話は何も聞いていない。狭い村生活だったのに。
当時、貴重だった菓子類を思う存分食べ、「提供された」女たちとまじわって出撃したあの時代、あの少年たち。ぼくも少年を神とする短歌一首を作った。