続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(29)  PDF

谷口 謙(北丹)(29)

総 代

 ぼくには全く関係のなかったことだが、中学では級長と副級長があり、座る席もきまっていた。教壇から向かって左の最後の椅子が級長で、右席の筆頭が副級長だった。教室に先生が入ってくると、級長が「起立」と言って全員を立たせ、「礼」。あとはがたがたと自分の席に座る。

 高校でも総代が2人あった。1年生の時は恐らく入学試験の成績だったろう。1番と2番が指名されたのだろうと思う。座席はしっかり覚えていないが、左後方の並んだ2つの席だったろうと思う。総代は進級毎に変わったが、選挙ではなく学校サイドの指名であった。1年生の時の総代は神戸一中で、五卒の上田と、同志社中学、恐らく五卒だったと思うが、西谷?の2人だった。その名前は覚えていない。西谷の方は姓も?である。同志社中学出は珍しかった。クラスにいる京都三中での広田に聞いたことがある。「同志社中学なんて珍しいなあ?」広田がぶっきらぼうに言った。「あれは特別だ。あんな奴はめったにいない」

 2人の総代は共に病気で留年したと思う。ぼくが開業して間なしの頃、朝の診察時間中に上田から電話が入った。何事? と思い受話器を取った。

「やあ、久しぶりだなあ。実は教え子の女の子1人、就職先がなくて困ってるんだ。あんた1つ薬剤師のいる病院を知らないかなあと思ってな」

 とっさにぼくは驚いて答えにつまった。

「ぼくの近所といえば峰山町の丹後中央病院しかないなあ。だがあそこにはちゃんとした薬剤師がおいでるし、開業医で薬剤師を雇っている人もないなあ」

 実は大学に入った時、基礎医学教室の並ぶ門を入ってすぐ左側に薬学部の建物があった。1回か2回、ちらりと上田の姿を見かけたのを覚えている。だが顔を辛うじて知っている程度、あまり話をした記憶もない。出身の神戸一中は有名校だったが、上田は少しもそんな気振りを見せない男だった。彼は薬学部を卒業し、どこかの薬大の教授でもしていたか? 何も自分のことはしゃべらなかったが。

 西谷?のことだが、ずっと後になって、彼は同志社大学を卒業したと風の便りで知った。彼は彼なりに同志社の学風を慕ったのだろう。

 大林は五卒の弊衣破帽とは程遠いきちんと身嗜みを整えた、勉強にもそつのない男だったが、たしか彼も2年生か3年生の時総代だったと思うがはっきりしない。勉強はよくできた。服装風貌からいかにも良家の御曹司と見受けた。前に書いた松村博が「大林は良家の出らしいなあ」と呟くように言った記憶がある。当時の良家といえば政党関係か、軍人関係か、いやいや大林組という有名な会社があるから、そっちの方だろうか。そんなことを考えた記憶がある。大林は東大工学部に進学したと思う。その後の詳細は一切知らない。

 大学に入ってからも総代2人がきめられた。1人は必ず三高出身だったと思う。前に書いたぼくの下宿に近かった高木秀夫も総代だった。が、しばらくして止め、代わりに緒方が総代になった。緒方の兄が荒木外科の助手で講義のときよく顔を見た。全く瓜二つよく似た顔立ちだった。このあたりになると読者に関係のある人が出てきそうで迷惑をかけてはいけない。筆を止めることにする。

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