エッセイ おばあちゃんが一生で 一番うれしかったことは何ですか ― 小学生の時の宿題 鞭 煕(舞鶴)  PDF

 「それは戦争で誰も死なんとみんな無事に帰ってきてくれたことや」。即答であった。祖母には私の父を筆頭に4人の息子があり、しかもうち一人は特攻隊員であった。しかしその叔父は出撃直前に虫垂炎に罹患し、そのうちに終戦となって(もちろん彼に代わって何方かが出撃しているわけで、そのトラウマがその後の彼の生きざまに多大な影響を及ぼしたであろうことは想像に難くないが)何とか生還できたのである。
 ひるがえって今、不謹慎な言い方で申し訳ないが、私たちはリアルな戦争をほぼライブで、つまり動画として見ることができてしまった。私たちはそれがいかに非人道的・不条理で禍々しく無残なものであるか、そしていつもなら普通の隣人であったかもしれない人が場所や状況が変わると、こんなになってしまうのだということも事実として見てしまった。百聞は一見に如かず。戦争とはこんなものなのだ。ベトナム戦争も旧日本軍も大凡似たようなものだったのだろう。こんなことは決してあってはならない。でも起きてしまった。
 コロナのパンデミックとウクライナでの戦争、誰も予測できなかったこの二つは「大きな物語」のターニングポイントとなるのだろう。未来はあるのだろうか。未来を切り開くには歴史を学ばなければならない。日本ではこの3年間コロナ感染症に関して、結局ちゃんとしたデータも包括的な中間総括も出てこない(本当にないのかもしれない)。我々はリスク情報を共有することが困難で、貴重な情報の多くをテレビやパソコンから得たのである。
 そういえば、一時「コロナなんて風邪の一種だ」とか「ワクチンなんてどうでもいい」などとしたり顔で宣っていた「専門家」たちはどこかに消えてしまった。根拠のない安易な楽観論―似非科学的与太話ほど危ういものはない。すでに情報自体にはあまり意味などないのであり、逆にそれなどを基にどう考えてどう判断して行動するかが重要なのだと改めて思う。
 膨大な情報の中のファクトに基づく情報をネットワークとして連結し、状況を誠実に乗り越える力は言葉すなわち論理のうちにある。論理とは理性である。しかし人の理性が無限という信仰は、たぶんマックス・ウェーバーの時代で終わった。ではそれを超えた何かが必要なのだろうか。そうかもしれない。「論理とは直観の論理的記述である」とサルトルは言う。「未完成の思考は重要であり、それは真理と遭遇するためのゆとりを与えてくれる」とは教皇フランシスコの言葉である。私は今、「自分のように隣人を愛して」生きていけたらと思う。そして、しずくが海綿に入るように、白鳥が蘆花に入るように「大きな物語」を紡いでいく糸になることができるならどんなにいいだろう。

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