私の思い出 町医者人生 八田 一郎(左京)  PDF

 私が生まれ育った修学院の地で、町医者になろうと思いたったのは、多分高校生になってからだと思います。第2次大戦中の昭和18年に幼稚園で麻疹に罹り、私は軽くて済んだのですが、数え年3歳の妹は重症で高熱が続き、脳症で亡くなってしまいました。お葬式の時、棺桶にしがみついて離れなった母がその後、「あんたが医者になってくれたら嬉しいな」と言っていたのがきっかけかもしれません。
 開業したのは昭和44年6月、卒業して6年目です。医者としてはまだ駆け出しです。開業当初は患者さんがなかなか来てくれなかったのですが、その年の秋頃からインフルエンザA型の香港風邪が大流行、八田内科医院にとっては「神風」です。朝夕ともインフルエンザの患者さんで待合室はいっぱい。午後からは5、6件、多い時は10軒往診し、夜中にも急患が押しかけ、てんてこ舞いの忙しさでした。
 往診には夜間にもよく行きました。有効な降圧薬が少なく、血圧が180とか200位の人もまれではなく、脳出血で寝たきりなっても、家族が看ていました。50年前はまだ三世帯で暮らしている家庭が多く、1日中誰かが家にいました。リハビリも訪問看護もなく、ただ寝ているだけでした。胃がんも多く、手術後は家で養生していました。完治する人は少なく、往診しても点滴くらいしかできません。臨終を家で迎える人がほとんどでした。私は100人以上の患者さんの死亡診断書を書きました。ほとんどは開業10年から20年までのことでした。
 その後日本は核家族化し、夫婦共稼ぎで、経済的に豊かになりましたが、家で看取ることができなくなり、死をしっかり見届けることができなくなってしまいました。人の死にざまを見つめることは、死生学上大切なことだと言われています。日本人はあくせくと、ゆとりがなくなり、心が貧しくなってしまいました。今コロナ禍で少し死について考える風潮が出てきたのは良いことだと思います。
 私は誤診ばかりしてきました。胃がんを見落としたこと、くも膜下出血を早く見つけられなかったこと、まだまだいっぱいあります。謝ってばかりの町医者生活でした。辛い思いで、お葬式に行ったことがいっぱいありました。それでも許していただきました。間違った時ははっきりと患者さんとご家族に伝え、あとは次善を尽くすこと、誠意を尽くすことです。それしかありません。患者さんとご家族と一緒に苦しみ、悲しみました。こんな仕様もない藪医者を許して下さった患者さんとご家族に感謝するばかりです。
 こんな私がまだ週3回午前中、息子の手伝いに診察室に出ています。難しいことはもう何もできません。患者さんと昔話に花を咲かせています。まれに私の診察を希望する人もおられます。申し訳なく診させてもらっています。ありがたいことです。

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