特集 地域紹介シリーズ20 乙訓一樹百穫  PDF

 協会は、地域紹介シリーズ第20弾の「乙訓」座談会を乙訓医師会会議室で5月29日に開催。出席者は同会より平井幹二氏、鈴木博雄氏、水黒知行氏、野々下靖子氏で、乙訓の地域医療について語っていただいた。また、ゲストとしてNPO法人長岡京市ふるさとガイドの会理事長の中山忠彦氏より、乙訓の歴史についてきいた。

第1部 乙訓 名前の起源から見る歴史

 中山 日頃は地元でガイドをしていますが、この会場近く、丹波街道沿いに「田村家住宅(旧鈴木医院)」と呼ばれている古民家があります。この辺りでは一番古い元診療所です。乙訓全体で最初に自家用車で往診されたのが、ここだと聞いています。当時往診に使っていたオースチンが倉庫に眠っているらしいです。この座談会会場の近くに、この古民家があることにも何か縁を感じます。
 さて、「乙訓郡」が正式に名称として定まったのが、701年の大宝律令によるものだとされています。大宝律令により、国、郡、里(郷)の3段階による行政組織が作られます。これにより山城国乙訓郡となりました。

「堕国」説

 ただし「おとくに」という名前はその時初めてつけられたものではありません。乙訓郡の地名の起源には二つの説があります。
 一つは、「日本書紀」「古事記」の中の記述です。「堕国(ルビ:おちくに)」という地名が出てきます。垂仁天皇の時代に、日本海側から4人(あるいは5人)の女性が天皇のお后候補として来られます。ところが一人だけ容姿が醜いという理由で、正室、側室にもなれずに国許に帰されることになりました。帰される途中、その女性は悲観して輿から落ちて亡くなってしまった。桂川、もしくは小畑川を越えたあたりの渕に落ちて亡くなったとされています。人々はその死を悼み、落ちた場所を「堕国」と呼ぶようになったという説です。
 もちろん、記紀は神話の世界の話ですし、垂仁天皇自身、実在していたかどうかもわかりません。しかし、当時の公式の歴史書両方に同様の記述がありますので、何らかの出来事を元に記述されたのは間違いないだろうと思います。

「弟国」説

 もう一つの説は、大宝律令ができ、今の京都市あたりのほとんどの地域が葛野郡(ルビ:かどのぐん)とされました。広い面積なので、桂川から西側の地域を分離した際、葛野郡を「兄国」、分離された地域を「弟国(ルビ:おとくに)」と名付けたというものです。この説は一時有力でしたが、大宝律令が出される以前に、すでに「弟国」と呼ばれていた地名があったことが判明し、今では否定されています。
 京都大学の研究者の話によると、乙訓という地域は、西山から東もしくは南方向に下っていった先にあたります。下っていく扇状地のことを「堕国」と呼んだのではないか。つまり、お姫様が落ちた国ではなく、坂道にある国という意味です。「堕ちる国」ではイメージが悪いので、葛野郡に対する弟の国ということで「弟国」にしたのではないかと言われていますが、これも証明されていません。
 乙訓(弟国)の歴史で大きな出来事というと、518年に継体天皇により都、弟国宮が一時置かれたことです。継体天皇自身についても、史料が少なく詳しいことはわかっていませんが、第26代天皇です。第25代の武烈天皇には子がおらず、後継を決めることなく亡くなってしまいます。そこで有力者たちが合議で新天皇の候補者を選ぶことになり、紆余曲折を経て越前にいた男大迹王(ルビ:をほどのおおきみ)を次期天皇としてお迎えに行くことになりました。これが継体天皇です。
 継体天皇は、当初は大和から来た有力者たちを信用しなかったようです。しばらくは越前から動こうとしませんでした。まず大阪で樟葉宮を作り、507年にそこで即位します。その後、奈良に入ったのが、即位から約20年後の526年のことでした。
 樟葉宮で即位してから奈良に入るまでの間、512年に山代国・筒城宮、そして518年に山代国・弟国宮に移っています。その弟国宮の所在地が、今の長岡京市ではないかと考えられています。2018年は弟国宮ができて1500年にあたる記念の年でした。乙訓郡の歴史においてはかなり大きな意味を持つ年ということで、地元ではさまざまな行事を行い、大いに盛り上がりました。
 784年には長岡京が造営されます。平城京と平安京の間に、10年間存在した都です。その存在は知られていましたが、平城京(74年間)や平安京(400年間以上)と比べごく短命だったため、「仮の都」とか「幻の都」と言われ、研究も戦後まであまりされてきませんでした。
 今から90年ほど前の大正時代に「乙訓郡誌」という郡の地理、歴史、文化を網羅する郡誌の編纂が計画されました。大正時代末に行政単位としての郡がなくなることになった際、郡の歴史をまとめようという話になり、当時の歴史研究の第一人者である京都帝国大学の西田直二郎先生に執筆が依頼されました。

未完に終わった「乙訓郡誌」

 ところが、完成しないまま戦後を迎えてしまい、西田先生は公職追放令で退官されてしまいます。それで地元長岡京市で生まれ育った歴史研究者の中山修一が、「乙訓郡誌」の編纂を受け継ぐことになりました。修一は私の父です。
 それまでの編纂状況を修一が確認すると、ちょうど長岡京時代の記述が抜けていました。はっきりした理由はわかりませんが、早良親王の評価に関する問題があったのかもしれません。早良親王は光仁天皇の子で、桓武天皇の異母弟です。781年に桓武天皇が即位すると皇太子になっています。長岡京は、桓武天皇が造ったのですが、その翌年(785年)に長岡京造営の責任者だった藤原種継が暗殺されてしまい、暗殺した側のトップが早良親王だったとされました。
 早良親王は皇太子を廃嫡。乙訓寺に幽閉され淡路島に流される途中、衰弱して亡くなりました。
 実際、早良親王が暗殺グループのトップにいたかどうかはわかりません。うがった見方ですが、桓武天皇が弟の早良親王よりも自分の子を皇太子にしたかったため、暗殺の罪を着せ排除したのではないかとも言われています。長岡京が10年で終わった理由として、相次ぐ禍に見舞われたことで、怨霊を恐れたためだと言われていますが、桓武天皇の心の中には早良親王の死に関する何らかの恐れがあったのではないかという解釈もされています。
 天皇家の存在を非常に大事に考えていた西田先生としては、皇族間のいざこざを歴史書の中に入れたくなかったことも、編纂の遅れの原因だったのではないかと思いますが、実際の理由はわかりません。
 「乙訓郡誌」の編纂を中山修一が着手したことが契機となり、1954年、長岡京朝堂院南門跡が発掘されています。朝堂院とは宮の中心的な場所です。そうすると、修一としては、長岡京跡の発掘は日本の歴史全体に関わることだということで、「乙訓郡誌」の執筆よりも、長岡京自体の研究に興味が移ってしまい、以後長岡京の研究に携わることになりました。結局、「乙訓郡誌」は完成することはありませんでした。
 しかしながら、残された原稿をもとに2017年に『未完「乙訓郡誌」稿』として、4分冊で刊行されています。向日市文化資料館の館長・玉城玲子さんが中心になってまとめられました。大勢の研究者の原稿を忠実に再現して刊行されたものです。

平安京の 「モデル事業」 となった長岡京

 桓武天皇が、長岡京に都を据えた理由ははっきりしていませんが、桓武天皇自らが「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」と詔しています。桓武天皇は本来、皇位継承の順番からいうと、即位できるような立場の方ではありませんでした。それが有力者たちから担ぎ上げられたことにより、天皇になってしまいます。しかし、自身で権力を振るおうにも奈良にいる限りはどうしようもありませんでした。対抗勢力として、旧勢力と仏教があったからです。たとえば東大寺は、大極殿より高い場所にありました。天皇を見下ろすことになります。そういうことがあり、都を奈良から移す必要性があったのでしょう。
 この当時、向日神社はすでにありました。長岡京の大極殿のあった場所から向日神社を見ますと、向日神社の方が高い位置にあります。ですので、桓武天皇は向日神社を別の場所に移転させています。また、長岡京に移る時、奈良の仏教である、いわゆる南都六宗(ルビ:なんとろくしゅう)は一切持ち込んでいません。新たに最澄、空海を唐に派遣して、新しい仏教を研究させ、それぞれ天台宗、真言宗の開祖となりました。空海の場合、官費ではなく私費留学の形を取っていたようですが、そのスポンサーは桓武天皇だったという説もあるそうです。
 さらには、桓武天皇の母親は高野新笠(ルビ:たかののにいがさ)という渡来人でした。暗殺された藤原種継の母親も渡来系で、乙訓地域の出身だったと言われています。桓武天皇は渡来系の人々の力を使って、都をこちらに移そうとしたのだと考えられます。
 短い期間で終わった長岡京ですが、この時の造営の経験は平安京に生かされました。平城京、長岡京、平安京はほぼ同じ規模の都です。しかし、平城京の場合は、まず碁盤の目に区切り、きれいな条坊を作ってから、道の幅を決めています。だから朱雀大路は82メートルもある。朱雀大路というのは都の中央を南北に縦貫する道路です。それだけ道が広がっていますから、両側の区画は正方形ではなくなってしまっています。
 そういうやり方をかなり修正したのが長岡京でした。それでも、まだ完璧ではない。それに対し平安京は、まず道の幅を決めた上で、正方形の区画を作って行っていますから、全体的に見てもかなり正確な正方形の区画ができあがっています。

なぜ長岡京は 「仮の都」 とされたのか

 鈴木 長岡京跡が発掘されたのが1954年ですね。そういう都があったことはわかっていたけれども所在がわかっておらず、それから一気に発掘が進んだということですか。
 中山 長岡京の時代はちょうど建物を建設する際に、礎石を使い始めた頃です。だから長岡京も発掘することができた。それまで言われていたように「仮の都」という位置付けだったら、礎石など使っていないはずです。しかし、当時の考古学者の多くは、奈良から一気に平安京に移るのが大変だったので、いったんここに仮宮を移したと考えていたんです。礎石など使うはずがなく、掘立柱で作っていただろうからその痕跡を見つけることはできないと考えられていました。
 水黒 現代のように重機があるわけではありませんから、地面を少し掘ってそこに掘立柱を立てて埋めただけのものと、基礎の大きな石を持ってきて立てるのと、手間が全然違いますね。礎石を見れば本格的な建物なのか仮の建物なのかの判別は確かにつきますね。
 野々下 石はどこから持ってきたんですか。
 中山 かなりの部分は古墳から持ってきたものです。なので、このあたりの古墳はほとんどが潰されています。しかし、ご先祖の石を持っていくわけですから、単に潰したのではなくて、そこでお祭りごとをした痕跡があります。
 水黒 長岡京に本格的な都を作るということは、相当数の人員を動員したでしょう。権力を誇示する意味もあったんでしょうね。
 中山 そうですね。当時、長岡京には工事作業員も含め5万人が住んでいたと言われています。今でも長岡京市の人口は8万人です。かなりの人口集中があったことは事実でしょうね。平城京は最大時20万人だったそうです。これだけの規模の都市になると、問題となるのが下水です。処理ができないんです。大きな川があるとそこへ流していたんですが、奈良には大和川しかありません。そのことへの反省だと思いますが、長岡京には水洗便所が作られていました。川から水を家に引き込んで、糞尿をまた川へ流していたようです。
 そういったことを示す遺跡がいくつか見つかっています。そういう点でも桓武天皇はいろいろ研究をされていたことがわかります。
 もう一つ、この地での大きな歴史と言うと、戦国時代があります。来年のNHKの大河ドラマで、明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」が放送されます。ドラマの中で乙訓がどのように描かれるのか、まだわかりません。ドラマ自体、本能寺の変で終わるのではないかとの噂も聞きますが、光秀の生涯を描くにあたって、山崎合戦に触れないわけにはいかないと思います。少なくとも我々はそう思っています(笑)。
 山崎合戦というと、乙訓のど真ん中の出来事です。ドラマを機に、乙訓のことをPRしたいと考えていますが、どういう脚本になるのかわかりません。しかし、期待はしています。

第2部 手帳が育んだ多職種連携

 平井 第2部は乙訓の地域医療がテーマです。乙訓医師会は1947(昭和22)年に発足し、2017年に70周年を迎えました。乙訓といえば在宅医療、在宅療養手帳と言われていますが、まず手帳ができる以前のことについてお話しいただけますか。
 野々下 私が開業したのは1968(昭和43)年です。出産退職した時で、ゼロ歳児を抱えての開業でしたので、開業直後は医師会の活動に関わる余裕がほとんどありませんでした。ただ、将来は往診ができる医師なってほしいと言われたことを覚えています。当時は往診する医師が少なかったんだと思います。73(昭和48)年、長岡京に移った頃になると少し余力が持てるようになり、往診を始めています。当時、往診をしている医師同士の横のつながりを作ろうということで、蔡(ルビ:さい)東隆先生のところにみんなで集まって勉強会をしたりしていました。訪問診療という言葉が使われるようになったのは、昭和60年代だったと思うんですが、それを目標にしていこうという感じでしたね。
 平井 1992年に野々下先生の医院内に「介護家族の会」ができますね。また、医師会で在宅療養手帳が発刊されるのが96年ですが、当時はどんな状況でしたか。

在宅療養手帳が生まれるまで

 野々下 診療所は「内科・小児科」を標榜していましたが、私のもともとの専門は精神科です。それで家族の方から相談を受けることが以前から多かったんですね。長岡京に移った頃には自然発生的に介護家族の会ができていますが、これは待合室で待たされる時間に家族の方が自主的に動き出した結果なんです。
 当時介護・福祉サービスを提供しているところといえば、旭が丘ときりしま苑、アゼリアガーデンでした。これらの施設では利用者の報告にA4の3分の1くらいの紙を使っていました。この用紙に血圧の数値や昼ご飯はちゃんと食べたかなどを記入していました。すると家族の会の中で、どの施設も同じような用紙なので、どの紙をどこに持参すればいいのか混乱してしまうという声が上がってきました。それで、情報が共有できる共通のノートを作ってはどうかというアイデアが浮かんだわけです。平成の初めの頃のことでした。それが在宅療養手帳の始まりです。
 水黒 その後94年、情報共有ノートを作ることにしたんですね。このノートは、あるターミナルの患者さんについて特定の医師一人でではなくグループで診ていきましょうという趣旨で考え出されたものです。
 訪問看護ステーション、特別養護老人ホーム、老人保健施設、社会福祉協議会、保健予防課らの方々と乙訓医師会とで95年、「共通ノート作成準備委員会」を立ち上げることになりました。その年の12月に準備委員会は、乙訓医師会の公式事業として「在宅療養手帳委員会」(以下、手帳委員会)となり、試験的に手帳100冊を作成し利用者さんに使ってもらうことになり、翌年4月、京都府医師会からの援助も得て、乙訓医師会として在宅療養手帳を正式に発行するに至りました。現在、手帳の総発行部数は1万部を大きく超え、毎年増え続けています。
 手帳活用の原則としては、患者さんの情報を共有する・各施設で同じノートを使う・ノートは患者さんのもの・記入内容は何を書いてもいいが、専門用語を使わず誰が読んでもわかる言葉で書く──というものです。その後も手帳委員会を毎月1回開催し、利用者さんから上がってくる意見や問題点などを出し合って改善していきました。
 そうこうしてうちに、介護保険制度のモデル事業を長岡京市が受けることになりました。モデル事業では、今でいう要介護認定をすることになり、事業を進めるために集まったメンバーが、手帳委員会のメンバーと重なっていました。それで、モデル事業を進める中で出てきた問題点を、さらに手帳委員会としても議論していきました。そのうち、新しくスタートする介護保険について話が聞きたいということで、さまざまな職種の人たちがいろんな意見や情報を手帳委員会に集約してくるようになっていきました。
 そこで情報交換しながら、幸いなことに「乙訓方式」と呼ばれる介護保険システムのスタートに向かっていくことになります。その過程で、各職種の連携はどうあるべきかなども議論されていきました。その流れで、介護保険担当者交流会という介護保険サービスを担当する事業者の集まりもできていきます。さらに施設長レベルが集まるような会も派生的に生まれていきました。乙訓医師会も介護保険の認定に必要な「主治医意見書記載マニュアル」を作製しました。
 野々下 当時私は、保険医協会の理事で地域医療を担当していました。それで厚生省(当時)の情報をいち早くキャッチすることができたんです。情報が入るとすぐに手帳委員会などで議論していました。

職種間の垣根を取り払う

 鈴木 私が開業したのは1990年で、医師会に入ったのが94年です。手帳の準備委員会ができたのが95年で、私も当初から参加しています。その後正式に手帳委員会となり、介護保険制度スタートという波に乗り、手帳はいろんな進化を遂げていったと思います。
 医師会として、継続的に他の職種の人たちと話し合うというのは、この手帳委員会が初めてだったんじゃないでしょうか。介護保険制度の導入でそれはさらに進むことになりましたが、多職種の方と同じ土俵で、職種間の垣根を超えて一つのものをつくっていく、今でいう多職種連携の走りだったと思います。医師と看護師という間でも、垣根があってなかなか話しにくいんですよ。とくに介護職の人は医師に対してもっと垣根を感じていたと思います。一緒に会議をする中で、その垣根が取り払われて、関係が近くなった。これが乙訓で長く在宅療養手帳が続いている要因だと思います。
 水黒 そうした中、介護保険制度スタートに向けて行政とも一緒になって住民向けに何らかの大きな規模の情報提供する場を持とうということになりました。実行委員会を結成し、99年11月に約1000人の参加者を集めたフォーラムを開催しました。乙訓医師会の行事としては過去最多の参加者だったと思います。開催にあたって戦力になったのが、手帳委員会のメンバーでした。
 もう一つ、介護保険に関して言っておきたいことがあります。申請者の要介護度を決める認定審査会についてです。認定審査会は、本来、法律上は市町村単位で行うことになっています。しかし、医師会からすると乙訓の2市1町、計三つの審査会に行くというのは大変なんです。ケアマネジャーさんたちにとっても同様でした。行政としても1カ月以内に審査結果を出さないといけないわけですから、かなり負担となっていました。それで乙訓医師会として、2市1町で一つの審査会を作れば、委員の出向、待遇、審査のやり方などについて同一のテーブルで議論ができる。利用者さんにとっても自治体ごとの差が出ることがなくなり、不公平感なく審査を受けることができるのではないかと提案しました。これを各自治体で検討してもらった結果、賛同していただきました。実はこれも、手帳委員会の連携の中で問題意識として浮かび上がった課題だったんです。
 平井 認定審査会の関連で、いわゆる「乙訓加算」があります。2001年11月の第11回乙訓医学会で、水黒先生は「認知症患者に対する二次判定基準の構築のための調査研究」というテーマで発表されていますね。

不合理な審査基準を打ち破った 「乙訓加算」

 水黒 介護保険制度が正式にスタートし、認定が始まってから常に言われていたのが、認知症の人の要介護度が低く出るという問題でした。認知症が進んでいても身体的機能が落ちていない人に関しては、要介護度が低く判定されていたのです。このことは、認定審査会の中でもしばしば問題になっていました。なので、認定審査会の二次審査で修正をと考えたのですが、どういうふうに修正するのか、基準になるものがありませんでした。そんな時、日本医師会から全国の認知症患者における二次判定基準構築のための調査研究をしたいということで、各医師会に調査への協力要請があったのです。乙訓医師会はすぐに応じることにしました。最終的に、全国32の医師会が調査研究に参加したと思います。
 調査には全国から在宅で549症例、2000症例は介護施設に入所している人の症例です。549症例中50症例が乙訓で、つまり在宅の患者さんの症例の10分の1は乙訓地域の要介護者さんを調査したということになります。これはものすごい手間のかかる調査でした。ストップウォッチを持ちながら、それこそ分刻みで利用者の日常生活を記録していくのです。
 分析の結果、認知症患者さんは、認知症でない人に比べると明らかに介護の手間がかかるということがわかったので、それに基づき要介護度を上げるべきであるという結論を得ました。この結果に基づき、乙訓では今、認知症患者さんの要介護認定の修正をしています。乙訓でこれだけ大変な調査ができたのも、手帳委員会の活動で培われた連携、人間関係があったからだったと思っています。
 野々下 猛烈にしんどい作業でしたが、みんなやりがいを感じてやっていましたね。今みたいにメールが広がっていない頃でしたので、わからないことがあるとすぐ電話、あるいは車を飛ばして会いに行って確認作業をしていました。
 また認知症に関して、医師をはじめ、各職種ともに理解度に問題が多い現実があり、対策として医師会主導で認知症の勉強会を立ち上げました。乙訓認知症懇話会と称し、医師、保健師、ソーシャルワーカー、社協職員、行政職などが比較的自由に参加して活動しています。初心者向けパンフレットを発行し市民に配布、年に2回のシンポジウムを開催しています。懇話会形式は認知症以外にも複数あり、活動しています。

在宅療養手帳の真の意義

 平井 2000年に介護保険制度が始まって以降も乙訓ではさまざまな取り組みがなされています。01年12月には「共通診断書」の運用が2市1町と各施設、それに乙訓医師会との間で合意されています。05年7月から府内全域で共通診断書の運用が開始されています。
 水黒 これもベースには手帳委員会での議論があったんですね。介護保険スタート以降、老健、特養問わず施設への入所を申し込む人がかなり増えました。入所するには多くの場合、順番待ちをしないといけませんが、老健にも特養にも申し込む、老健も1カ所でなく何カ所にも同時に申し込んだりする人も珍しくなかった。申し込みの際、医師の診断書を提出する必要がありますが、1通1000円~3000円ほど費用がかかります。1通1000円としても5カ所に申し込んだら、それだけで5000円かかってしまう。診断書の書式は各施設とも同じようなものですが、それでも少しずつ異なるので、医師の側も大きな負担となってきたのです。
 この診断書の書式を、せめて乙訓だけでも共通化できないだろうかという議論になりました。それで医師会と、乙訓2市1町、それと施設の代表者が集まる場を持ちました。たとえばMRSAの保菌者をどうするのか。申込者全員の鼻の粘膜を調べるのか。梅毒とか肝炎も調べるのか。そういった検査は本当に必要なことなのか。そういう議論を経て、最終的に、どうしても必要なデータだけを記入する共通診断書をまとめ、2001年12月1日にスタートしました。
 以後、診断書は1通だけで済むようになりました。利用者は入所申込をする際、診断書のコピーを施設側に提出し、原本は自分で保管します。それにより利用者さんの費用面での負担も軽くなりましたし、医師の側も何枚も似たような書類を書く必要がなくなりました。これには京都府医師会も関心を持ってくれて、府内全域で使える共通の診断書にしたいということになったのです。
 鈴木 共通診断書の話は、今の時点から考えると当たり前のことなんですね。だけど、特に大きな自治体では、共通診断書というシステムを作ることができなかったと思います。それを乙訓では、従来から培ってきた多職種連携の中で、福祉施設も巻き込んで作り得たわけです。だからこそ他の自治体でもやろうということになった。当初はなかなか抵抗が強かったことを覚えています(笑)。
 水黒 当時、新聞社の取材を受けたことがありました。その時に記者から聞かれたのは、医療者側は診断書を5通書くほうが5倍の報酬になるのに、なぜ1通にするのですか。損するじゃ
ないですかと。いわば医師の利権を自ら放棄することになるという見方です。実際に医師の中には自らの利権をなぜ放棄するんだという声もありましたしね。
 鈴木 逆の意見もありましたよ。医師会がそれだけ診断書にこだわるのは、自分たちが儲けたいためでしょと。理解してもらうのはなかなか難しかったですね。
 水黒 そうそう。乙訓で共通診断書を作り、これ以外は受け付けないということで、医師会が利権を求めているかのように誤解した施設もありましたね。
 共通診断書はおそらく全国的に見てもあまり例がないんじゃないでしょうか。
 鈴木 よくこれがまとまったと思います(笑)。
 在宅療養手帳が大事なのは、単に情報の共有ノートを作ったことではなく、そこからいろいろなことが派生していったことです。多職種連携ができて、だからこそ医師だけではできないような介護時間の調査ができ、それをアカデミックに解析して、介護認定の不合理をなくした。共通診断書もそうですよね。いろんな課題を乗り越えてきた。

「顔の見える連携」継承できるか

 平井 その後も、医師会として『介護認定―この問診票があれば主治医意見書が書ける』などの本を出版したり、地域包括ケアに関するシンポジウムを継続的に開催してきました。また、日本医師会最高有功賞、保健文化賞も受賞しています。
 鈴木 この間、地域の介護サービスは大きく変わりましたね。一番大きな変化は、介護事業者、サービス事業者が爆発的に増えていることです。以前は気心の知れたもの同士が集まり、ツーカーで議論できていたことが、今や代表者を集めるだけで120人以上にもなります。在宅療養手帳のことを知らないケアマネジャーさんもおられるようになっている。
 電子的デバイスというものが発達してきているので、今後それらを利用した情報の共有が大切になってくるでしょう。しかし、乙訓の多職種連携は、顔の見える関係での連携なんですね。これが一番大事な点だと思います。これを続けるのは、多大な労力を必要とされますが、それを抜きには連携は生まれないし、逆にいうとそれが一番の近道だと思っています。
 野々下 一時、手帳を電子化しようという案がでましたよね。今後そういった方向に進むと思います。私自身は、もし電子化してしまうと活用しなくなってしまうかもしれない(笑)。私だけでなく私と同世代ではちゃんと活用できる人はいないと思うのです。あ、私の世代ってもういないのかな(笑)。でも、電子化する時のことを今からイメージしておかなければいけないと思います。
 水黒 くり返しになりますが、手帳の活動の大きな意味は、活動を通して人が育ってきたことです。人を育てるためのシステム、医師会にしろ介護施設にしろ、手帳委員会に参加することにより、あるいは手帳に関わることによって育って来られた方が、現在では手帳にしても交流会にしても実行部隊になって下さっています。
 新しい時代の地域連携は、新しいデバイスに基づくものになっていくでしょうが、心が通いあうシステムを持続していただきたいと思います。
 平井 まだまだ話が尽きず、乙訓の在宅療養手帳を短時間で語るのは、無理があったかもしれません(笑)。
 時間となりましたので、このあたりで終了したいと思います。ありがとうございました。

中山 忠彦 氏
NPO法人 長岡京市ふるさと
ガイドの会 理事長

平井 幹二 氏
乙訓医師会 会長
ひらいクリニック

鈴木 博雄 氏
乙訓医師会 副会長
鈴木内科外科診療所

水黒 知行 氏
乙訓医師会 監事
医)総心会 長岡京病院

野々下 靖子 氏
乙訓医師会会員/野々下医院閉院
認知症カフェ「けやきの家」開設

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