私の一芸 早喰いのこと  PDF

谷村 史子(綴喜)

 私は生来、俊敏さには程遠い性で、とりわけ食事が遅かった。かつて小学生の頃、「残さず全部食べなさい」がその時代の指導である。学校給食は完食しないと教室から出られない。供される食パン3枚は量が多く、多くの子どもに人気のシチューが苦手であった。遅喰い、脾虚で少食、偏食の三難が重なり、給食時間が終了しても私は居残りとなる。昼の休憩、続く掃除の時間が始まり、ようやく解放される始末であった。
 その遅喰いが大変身を遂げるのが、大学病院の研修医になった時である。午後の手術開始の30分前、オペ出しの時刻には手術室に入り、準備万端整え執刀医をお待ちするのが新参者の務めである。外来診療ではシュライバーとして、諸先生の口述筆記が研修医の役目であった。大混雑の外来診療室で時刻が迫る中、おずおずと離席の御願いを申し上げて許可をいただき、医局で弁当を咽喉に流し込んで手術室に馳せ参じる。初年度で修得した一芸が早喰いであった。
 時を経て勤務医から開業医になり、専門領域以外の学会や研究会に参加する機会が増えた。ランチョンセミナーなどで周囲を窺えば、参加者集団における箸を取ってから置くまでの平均所要時間は会ごとに異なる。所属する科や老若男女比の偏向、会自体が東西どちらの医学に分類されるか等、これらが食事に費やす時間の長さに寄与する要因と睨んでいる。もっとも疾風怒濤の勢いの御方、何時終わるとも知れない御方は何処でもお見かけするが。
 蕉門十哲の一人、森川許六は、『風俗文選』長雪隠ノ解の冒頭、「早喰、早糞は、男子の一藝とは稱し侍る。此藝おほくは無風雅の人にあり。たとひ一藝はつきたりとも、一藝一徳ありて、萬徳一藝にはかへがたらんか。」と説いている。尾籠な話はさておき、早喰は大和男子の心得であった。早喰は早仕度に繋がるとされ、遅疑逡巡は確実に勝機を逸するからであろう。私などは単なる早喰いで終わったが、それでも芸は身を助く、これも一芸である。最後に負け惜しみを垂れてはみたものの、東西医学どちらの生活養生の観点から見ても、早喰いは紛う方なき悪習慣である。

ページの先頭へ