医師の診る風景 北丹より7(峰山町編)  PDF

次世代が帰郷できる地域づくりを
新谷繁之(北丹)

 今から50年を超える前、私が小学生の頃は通学の途中、機織の音がどこからともなく聞こえ、この辺りはとにかく「丹後ちりめん」で活気に溢れ、景気も良好でした。しかし、時代の変化とともに和装産業が衰退し、私が高校を卒業する頃の約40年前には仲買の相次ぐ倒産と、それに伴い機織を廃業する家が増え、機織の取り壊しが進む状況となってしまいました。
 以前、家は爺さんばあさん父母と子どもというのが基本で、機織と農業が一家の仕事というのが多かったのですが、ちりめん産業が衰退してからは、子どもたちが進学や就職で故郷を離れた後、地元には機織に代わる就職先がないという現状になっています。
 各家は田畑を持っていることが多いのですが、1軒あたりの耕作面積は狭く、農業だけで一家の生計を賄うのは困難ということが多いと思います。そのため、子どもは故郷へ帰りたくても帰れず、都会で結婚・生活を長く続け、帰る気持ちも勇気も年々なくなってきます。そうなると年寄りだけの世帯がどんどん増えてきます。それも近年は独居老人の世帯が急増し、それに次いで高齢の親と独身の息子という家が増加してきました。人口が減り、利用者の減少でバスや鉄道の運行本数が減り、以前自動車は3軒に1台くらいだったのが、今は成人ひとりに1台の時代になっています。
 このような状況から、高齢者でも独居で農業をするには自動車の運転は必要不可欠で、軽トラックに農耕具をのせて田畑まで運び、作業が終わるとまた乗せて帰るというのがこの辺りの農業です。
 農業ができなくなれば、田畑は荒れ、鹿や猪等が早い時間から出没するようになります。そして、認知症となり、病状は進行し、ひとりで生活できない状態になり、さらに家屋も朽ち果てていきます。その結果、独居老人の死亡が増えてきています。
 最初は雑草だらけの田畑がぽつんと見え、それが年々増えていき、そのうち明らかに人の住んでいない家屋が目に付くように寂しい気持ちになってしまいます。何とかして後継者が帰郷(Uターン)できるよう行政も対策を試行錯誤していますが、思うようにいかないというのが現状のようです。

筆者プロフィール
2002年に峰山町にて亡父の医院を再開し、5年前より現在の医院へ移動。昭和31年4月生まれ。

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