透析医療に携わり半世紀 京都を知ろう 医史編  PDF

「患者さんを救いたい」当たり前の医療ができる社会を

「往診で患者さんと向き合う時が医者だけでいられる時間です」

医療法人明生会 賀茂病院理事長 藤澤 明生 医師

京都市北区にある医療法人明生会賀茂病院。開設者で理事長の藤澤明生医師は外来診療や手術に忙しい日々を送る。休憩中にも治療や対応の指示を求める職員からの内線電話が鳴り響く。経営者としては物価高や人件費高騰に診療報酬が追い付かず苦しい経営が強いられ、さらに診療報酬改定ごとに複雑化する制度への対応に苦悩している。医療に半世紀以上携わってきた医師として、今、何を思うのか。その半生を聞いた。

このままでは生き残れる中小病院はない

「昔は患者さんのためだけを思って医療ができていましたが、10年くらい前からでしょうか、その思いだけでは経営が成り立たなくなってきたのは」。そう語り出した藤澤明生医師。10年程前から人工透析に係る診療報酬の引き下げが続いている。2024年診療報酬改定では透析の入院患者の点数が包括点数となり、患者のために使いたい薬があっても病院の持ち出しとなるため、経営にとっては大きな痛手だ。例えば、透析治療に必要な輸血。腸管から出血し貧血が続く患者は止血に血小板が必要になるが、赤血球は輸血として認められても、血小板は薬剤として扱われるため、その費用は病院負担になる。
「透析患者さんは免疫が低下し肺炎になり重症化しやすい。ヴェノグロブリンという薬で免疫を上げると早く治療できるのですがとても高価な薬です。何とか早く治してあげたいと思う。それは医師として当たり前のことなのですが…」
診療報酬はどんどん締め付けられるが、職員の給料を下げるわけにはいかない。特に看護師のなり手が少ないのは責任ある仕事にもかかわらず給料が低いことだと藤澤医師は指摘する。
「患者さんのためにこんな治療をしたいと思っても、経営を考えると決断が難しい。100人を超える職員の生活を守らなければいけないからです。それでも削れるところを削って、できる限り理想の診療を貫いているのが現状です」 「これは決して当院だけの問題ではありません。今のままいけば生き残れる民間の中小病院はありません」

患者さんが何歳でも医師として救う

藤澤医師が医師を志したのは地元・徳島で開業していた叔父から「診療所を手伝ってくれないか」と言われたことがきっかけだ。「でも私は最初から医師になりたいと思っていたわけではないんです。土木建築士になってダムを造る人になりたいというのが私の夢でした」。その後医師になると決めた頃、貧しい人々に無償で医療を施し、厳しさと慈しみを持って命と向き合う『赤ひげ』(監督:黒澤明)を見て「医師とはこうあるべきだ」と感じたと言う。大阪で開業していたもう一人の伯父が赤ひげ先生を地で行く町医者だったことも、理想の医師像に強く影響を与えた。
「これから透析がもっと一般的になる」。医学部に進学した藤澤医師は医局入局の際に当時の先輩にそう言われ泌尿器科を選んだ。1968年に透析医療が保険適用となり、患者の経済的負担が軽減され、透析技術も進歩した頃だ。当時は、透析治療を受けても5年から10年ほどしか生きられないとされていたため、50歳以上の患者には透析を行わないのが一般的だった。しかし、「患者さんが何歳であっても医師として救うのは当たり前」と50歳を超える患者らに透析治療を続けた。ベテランの看護師長から「それは病院の方針と違う」ととがめられ、思わず声を荒げ、場の空気を震撼させるほど激しい言い争いになったこともあった。それでも「患者さんの人生だから」と信念を曲げることはなかった。透析治療をした90歳の患者は100歳まで生き抜かれた。
管理者を務めていた病院の京都市内の法人内病院が移転することになり、居ぬきで開業することを決意。1987年8月に透析医療を専門とする賀茂病院を開設した。当時、ある雑誌のインタビューで「理想とする病院は?」と聞かれ、「患者さんにとって、もっとも安心できる場所」と答えている。患者にとって親切で気安い医師でありたい、賀茂病院もそのような存在の病院になることを願い、病院経営が始まった。

若い医師には貪欲になってほしい

2026年、賀茂病院は創設39年、藤澤医師は80歳を迎える。赤ひげを志した頃から医療を取り巻く社会は大きく変わった。しかし、患者を救いたいとひたむきに突き進んできた医師として、こう強く願う。「今は働き方改革の時代ですが、私が医師になった頃は24時間働くような気持ちでいましたね。1教えられたら、2を、3をやってみたい。10が完成形だとしたら、10まで自分の力でやってみたい。そういうのが当たり前の時代だったのでしょうね。いつからか、1を教えても1しかしない人が多くなった。そういう時代の変化を感じます。それでも、今の若い医師にはどんなことにも貪欲になってもらいたい」と。(文・写真2025年10月24日)

ふじさわ・あきお
医療法人明生会 賀茂病院理事長。
1973年大阪医科大学卒。学生時代に鍛えた体力を武器に医師歴50年超。笑顔を忘れず診療に励み、休日はゴルフで健康管理も抜かりなし。
京都私立病院協会副会長。

地域のために貢献する仕事を

藤澤家の巻物から

「天保八酉年六月十五日誕生藤澤登齊(中略)醫術開業免状ヲ享受シ醫師開業重清村醫トナリ衛生又公共事業ニ盡碎セリ――」
藤澤家の家系図を記した巻物に記録が残る。登齊が徳島で医師となったのが藤澤家の医家の始まりである。登齊は地域の健康を守るため研鑽を積み、九州・大宰府に赴き薬も学んだ。曾祖父・宗平は村会議員と教育衛生に関する名誉職に就任、公共事業に貢献し、後年薬種商を営んだ。小学校校長を務め、村の社会教育委員も引き受けた祖父・要人との記憶はないが、祖母・ユキエから度々「お前は勉強が足らん」と言われた。医師になった叔父2人を育てたからこそであろう。軍隊帰りの父・公明は大変厳しい人で、東京の大学に進んだが血を見るのが苦手で医師にはならず、故郷の徳島に戻り役場の助役を経た後、町長を務めた。
「地域のために貢献する仕事を――」。藤澤家が代々受け継いできたその精神は残された巻物にその淵源を見い出せる。弘法大師の弟・善信、その息子・藤新太夫、――「藤澤ノ始祖也」。「天正十三年之夏節仙石權平(中略)讃岐香川郡安原之郷之城郭モ兵火ニ落城シ彼城山麓ニ於テ主従兵ヲ打死スモ仙石權平カ(中略)消滅ス――」藤新太夫は讃岐の地で仙石權平との戦に敗れ、阿波に移った。巻物には度々「公共事業ニ盡碎」の言葉が記されている。藤澤家の人々は医療や政治、教育などの分野で地域のために職責を果たしてきた。その精神は明生医師の赤ひげ魂として、今、しっかりと受け継がれている。

医療法人明生会賀茂病院

1987年8月開設、1999年移転・法人化。京都市北区。長期入院透析に対応する透析医療を主軸に内科、泌尿器科、外科、眼科、放射線科を標榜している。病床数は59床。「やすらぎの医療」を理念に掲げ、地域の医療を守っている。

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