エッセイ 明治を偲ぶ 栗原 眞純(伏見)  PDF

 昭和12年から16年の間、伏見に生まれ住んだ私は、昭和52年、再び伏見に戻り開業、現在に至ります。伏見港界隈は写真の題材が豊かで、折に触れ撮影に出かけます。この写真も伏見港周辺で撮影しました。幸せそうに散策する和服姿の若者を見て、ふと漱石や鴎外の若かりし頃の日常を垣間見た思いがして思わずシャッターを押しました。
 さて、写真からは少し離れて、「伏見港」から膨らんだ連想に進みます。
 安土桃山時代、文禄元(1592)年豊臣秀吉は伏見に集まる桂川/木津川/宇治川を、海路に繋がる淀川と結んで日本一の物流拠点、伏見港を構築しました。伏見は伏見港を中心として繁栄を極めた城下町です。
 私が幼少期を過ごした伏見桃山には今なお、当時の大名屋敷や豪商の名前(羽柴長吉、福島太夫、永井久太郎等)が地名として残っています。私の生家の地名も「金森出雲(飛騨高山藩主)」でした。
 秀吉没後、京都の豪商、角倉了以が皇居のある京都と、物流の中心伏見を結ぶ水路、高瀬川を開削し、慶長6(1601)年、水路による物流は京都の中心、今の京都市中京/上京区まで拡大しました。
 9歳から10年あまり、青春時代の大半を「中京区堺町通三条上ル」で過ごした私は、三条通、河原町通、烏丸通、寺町、錦、新京極、京都御苑、六角堂等を自分たちの遊び場と思って過ごしました。この辺りは八坂神社/祇園祭の氏子地域でもあります。そのころ住んでいた辺りの町名は「大阪材木町」でした。
 高瀬川を介して大阪/全国との北山杉等の材木流通を担った商人の町だったことが覗えます。京都には、御所をはじめ公家屋敷や神社仏閣が多く、人口が集中し、建築/土木資材の他にも衣食住すべての消費量が莫大でした。何十艘もの高瀬舟が連なって京都―伏見間を行き来したといいます。
 「大阪材木町」の他にも近くには、木屋町、石屋町、米屋町、車屋町、樵木町、先斗町、船頭町等、当時の職種を反映した地名が多々あります。
 青春卒業以来60年あまりが過ぎた今、京都市中心部も様変わりしつつあります。インバウンド効果によるいき過ぎた現象、古民家/京町家を取り壊した跡地へのホテル建設ラッシュが起きました。かつて私が住んでいたところには、「(仮称)大阪材木町ホテル建設予定地」と書いた立て看があり、辺りはブルーシートで覆われていました。あの美しい明治の面影を残していた古都、京都の景観は二度と帰ってこないでしょう。

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