私のすすめる ナガラ脳トレ 禅問答  PDF

宇田 憲司(宇治久世)

尼僧様への献歌

 興聖寺にはできるだけ月2回は行こうとしている。去る年の5月は、地方裁判所提出用意見書の執筆に忙しく、やっと同月25日に寺に赴いたところ、奇しくも尼さまが入山受付におられ、男僧とは違っていつになく愛想の良いお迎えであった。いつもは、和尚様を略してオッショハンとお呼びしていたが、さて何とお呼びしてよいものか戸惑い、尼御前様でしょうか、尼さまでしょうかなどお尋ねすると「尼僧と申します」とのことであったが、つい「尼さま」と口走る。「覚え難いのならば、お舟が一艘、二艘と覚えて下さい」とのアドバイスであった。同月29日、この月2回目の参拝時にまたおられ、「よくお越しになりますね。興聖寺の納経帳(図)をお持ちいただけば、入山料が無料になります」とのことで、1冊2000円を喜捨して、7回来れば元が取れると喜んで、お礼に和歌を捧げることにした。「み仏の慈悲の浄海(きよみ)の浜辺なる二艘に乗れぬ一艘の舟、オンアロリキャソワカ(聖観世音菩薩真言)、オンソラソバティエイソワカ(弁財天真言)」と禅問答を真似して、どちらの舟か迷うとの趣旨のつもりであったが、よくできていると褒めていただけた。そこで法名をお尋ねすると大容直承様とのことであった。やはり、尼さま、尼僧様、尼御前様などより名前を知り、お名前でお呼びするのが一番よいと思う。
 ところで、葛藤を打す(碧厳録1)という言葉があり、つたかずらがものに絡みつくように、文字や言句が人を繋縛するのに例えられ、その文字、言句またさらに公案をさす語ともされる。ある和尚が小僧たちに「二人行く一人はぬれぬ時雨かな」との句を示したところ、小僧たちは一人ぬれもう一人はぬれぬと考え議論したが、和尚は「二人がぬれたのだ」と小僧たちの「葛藤を打」したとのことである(秋月龍珉『一日一禅』講談社学術文庫)。読んだ当初は「もう一人もぬれぬ」と考えたが、文理的には「で」を補充して考案すれば、「一人ではぬれず、二人でぬれ行く」となる。ならば二人は、み仏の慈悲の雨に打たれてぬれ進んだ、とでもなろうか。
 別の機会には、「ほととぎす いずくにありや姿なく 初音観せまし利を導きて」と献歌したが(「ナガラ脳トレ歌詠み初め」:本紙3028号)理屈っぽくてお気に召さず、また別の機会には、仏をダシに、「み仏は 木の端くれと譬うれど 木木の隙間を渡る涼風」と宗論にも適うようにと願ったが、これもわざとらしくて不合格で、その内あまりお目にかからなくなり、献歌もこれら3句で終わってしまった。
 よく俳句を作りメモ書きで下さる患者さんがいる。ファイルして外来待合室図書棚に掲示している。その患者さんからは、「先生は、観音様や弁天様ではなく、尼僧様のお舟にお乗りしたいのですね? よく解ります」との批評であった。

図:初夏の竜宮造り唐様山門(右)と紅葉の琴坂(左)

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