富士山 関 浩(宇治久世) 第8回 1980年に起こった国内最悪の落石事故  PDF

 太子館3040mから八合目、このあたりで高山病の症状もそろそろ現れる高度なのでこまめに水分補給と30分ごとの小休憩をとることを心掛ける。
 五合目から頂上までの約半分まで登ってきたことになる。
 「太子館」と言う名は聖徳太子が馬を駆り富士山に登ったと言う伝説に由来する。右には吉田大沢が拡がり、砂走りなので昔はここを下山路に使用していたが、1980年の大落石事故の後、立ち入りが禁じられている。
 富士山大規模落石事故は80年8月14日午後1時50分ごろに富士山頂上の八神峰のひとつ、久須志岳付近の岩場で落石が二度にわたり発生した。直径1~2mの巨石50~60個が左右に広がりながら一直線に滑り落ち吉田大沢に向かった。雪崩のように広がった落石は本八合(標高3300m)付近で吉田砂走りに自然発生的にできた下山道を直撃し、八合目(標高3100m)にかけて多数の登山者を巻き込み、なぎ倒しながら六合目と七合目の中間付近で再び登山道に合流し、ここでも下山者を襲った。落石は最終的に標高差1400mを転げ落ち五合目付近まで達した。地震など引き金となる事象はなく、突発的に発生したためほとんど身をかわす余裕もなかったことから被害は拡大し、死者12人、重軽傷者29人を数え、国内の落石事故史上最悪の惨事となり、日本中に衝撃を与えた。
 前夜の夕食時、たまたま隣り合わせた老若2人連れに話しかけられ、お年寄りの方から「自分たちは秋田から来た。自分は傘寿80歳、一緒なのは20歳の初孫、合わせて100歳の記念登山に来た」と言われる。この傘寿氏、何もかもてきぱき、機敏でそつなく、筆まめ。現在時間、所要時間、高度などをたえずノートに書き留めている。「富士山観光協会の発表ではいままで100歳以上1人、90歳以上10人、80歳以上が117人頂上に立ったが、自分は118番目になるんだ」と熱を込めて話してくれた。同行の20歳の学生は足が速く、ずんずん先に行ってはコーナーで待ってくれる。何回も繰り返されるとまるで斑猫ハンミョウ(道しるべ)君と言いたくなった。
 しかし疲れた祖父を引き上げたり、お尻を押し上げたり甲斐がいしく世話をやく姿は微笑ましい。促されて私は先に行くこととした。
 このあたりは、太子館から九合目3570mまで530mもの高度差があり、ジグザグと、うんざりするものの、なだらかで、七合目の急勾配の道に比べれば、歩きやすい。標高3150mの蓬菜館で顔色の悪い女性がベンチにかがみこんでおり、辛そうだ。下山するかどうかガイドと相談しているのだろうか。八合目、2泊目予定の山小屋白雲荘3200mに立ち寄り、余分の荷物を預け、小休憩の後出発した。
 いよいよ日本で二番目に高い北岳3193mよりも高く、ここより高い場所は富士山しかなくなった。

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