特集3「これからの日本の医学─過去・現在・未来─を語る」企画 講演録 江戸から学ぶ日本の倫理
田中優子氏(法政大学総長)を講師に「江戸から学ぶ日本の倫理」と題し、開催した講演会(10月26日)の概要を紹介する。
江戸時代の医療と養生
江戸時代の人びとがどういう価値観を持っているか。当然そこには様々な生活の側面があります。
まずは、医療や健康、身体に関することです。彼らが一番大事にしていた価値観は養生です。養生とは、自分で自らの生命を養うことです。生活に注意して、病気にならないようにする。これは決して長生きすることを目標にしているのではなく、生活の質を高めていくという考え方です。
江戸時代当時の平均寿命は数字の上では低い。幼児死亡率が高かったのです。生まれつき体の弱い子は小さいうちに亡くなってしまう。子どもたちがごく普通にかかる病気の中に、命を危うくする病気がいくらでもありました。
3歳まで、5歳まで、7歳までと、子どもたちが少しずつ生き延びていくことを、親たちは見守ります。子どもは3歳までは一番抵抗力が弱い。その次に5歳、そして7歳。7歳というのは数え年ですから、今の年齢では6歳くらいになります。親たちはもう大丈夫だと安堵し、非常に喜ぶわけです。
そんな江戸時代の医療において、一番大事なのは自然治癒力をつけることです。『雨月物語』を書いた文学者であり医師でもあった上田秋成は、「薄衣薄食」「ほど良きと思うは過ぎたりなり」ということをエッセイで書いています。
そして、自己治癒力をどう高めるかという知恵が、各地の地域医療に根付いていたのではないか、と上田秋成は言っています。
『養生訓』の世界
養生は人びとの中での重要な関心事です。養生の詳細が記されている『養生訓』で貝原益軒は、「嗜欲を節にし心気を定めること」「薬と針灸を用ひて病をせむるは、兵を用ひてたたかふが如し」と言います。薬を飲ませたり針を使うことは病を攻めることなんだと表現しているのです。これでは戦争と同じだ。そういうたたかうという姿勢では治らない。
また、「十分によからんことを求むれば、わが心のわづらひとなりて楽なし」とも言っています。あれもほしい、これもほしいと豊かな生活をしようと思った途端に、それ自身が心の患いとなるということです。
さらに言っているのは「養生の四寡」です。次の四つのことを少なくすれば養生できるというのです。「思い」「欲」「飲食」「言」です。
ビジネスの倫理
江戸時代、非常にたくさんの商売人が出てきて、商人という生き方が生まれます。商人は平安時代からいますが、その頃はまだ限られた存在でした。それに対して、江戸時代の商人の活動は非常に活発です。手形の取引を行う金融業にたずさわる商人や、長距離の貿易を行う商人なども含め、非常に大規模な商人、大店と呼ばれる商人が次々と出てきました。近代の住友や三井などにつながる大企業が江戸時代初期にはすでに成立しています。
そういう時代になると、お金の大切さに人びとの関心が集まるようになります。
ここから生まれた価値観は、信用を大事にするということです。その店(企業)が長続きすること。江戸時代において、非常に大事にされていた価値観です。人の信用が長続きする。つまり組織が長続きするということです。
老舗が世界で一番多いのが、日本だといわれています。長続きすることに大きな価値を見出してきた結果です。
食品偽装と詐欺商法
逆に人をだますとどうなるのか。井原西鶴は、質素倹約を基本とし信用を倫理とする商人の中でも、不正に手を染める人たちの物語を書いています。
あるお茶屋さんでは新しくてすばらしい茶葉を売り、みんなに喜ばれていています。ところがその新しい茶葉に古い茶葉を混ぜて売り始めるのです。今でいう食品偽装です。そして次第に混ぜる古い茶葉の量が増えていきます。最初はおいしいと評判で、みんな買ってくれていましたが、そのうちお客が離れていきます。そうなった時点で古い茶葉を混ぜるのをやめればいいのですが、このお茶屋はやめることができなかった。するとそのうち、お茶屋自身が狂ってしまい、恐ろしい末路を迎えたという話です。
「蛸売り八助」という話もあります。これは詐欺商法の話です。蛸の足は8本。ところがこの八助はあらかじめ1本切り取って7本にして売るのです。切り取った1本は煮付けなどにし、別の方法で売るわけですね。当初、お客は蛸の足が1本少ないことには気づきません。ところがある人が気がついた。うわさがどんどんと広まり、蛸売り八助は商売ができなくなってしまいます。信用を失ってしまったものですから、他の商売もできない。商人が信用を失うことの怖さを描いた物語です。
落語に見る生活の倫理
江戸時代の生活、価値観というと、みなさんの中には落語を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。あるいは歌舞伎を思い浮かべる方もおられるでしょうか。歌舞伎の中には、人間はこう生きるべきではないかということを色濃く出しているものもあります。落語にもそういう特徴があります。
ひとりの大工がいる。この大工さんは朝早く、夜明けとともに家を出て働きに出かけます。奥さんは家で針の仕事などの内職をしています。子どもたちは寺子屋に行っている。夕方になると大工さんは帰ってきます。帰ってくると子どもたちを連れて銭湯に行く。そして銭湯から家に帰ってくると、お燗が1本つけてあり、横にはちょっとしたおかずが添えてあります。それを飲んで今日はもう寝ようか、という日常です。
落語はこういう生活を幸せの典型だとします。明日はもっと稼ごうなんてことはだれも思わない。仕事があり、仕事ができる程度の食べ物があり、家族を持てるということ。そして夕食にはお燗の1本もつけることができるということ。これだけでもう十分な生活だと思っている。
粗忽者と与太郎
落語で描かれる世界はまた、粗忽者や与太郎でも生きていける社会です。粗忽者は落語の中ではたくさん出てきます。何をやってもうまくいかない、失敗ばかり。
一方の与太郎というのは、基本的に自立して生きていけない人です。落語では、そういう人に対して周囲の人たちが、生活のためになんとか商売でもやらせようとします。
この与太郎や粗忽者に対する周囲の人たちの面倒のみかたが面白い。たんに養ってあげるというやり方ではない。仕事を与えるのです。「お前、かぼちゃ売って来な、飴を売って来な、これならできるだろう」って。与太郎が飴売りになる『孝行糖』は、与太郎が歌を歌いながら飴を売るという話なんですが、与太郎は本当に楽しそうに売りに歩いています。
そうやって仕事をさせる。そして、仕事をしたことでお金を渡す。また、そういう人にやってもらえる仕事がある。そして自立をしてもらう。それは完全な自立ではないかもしれませんね。まわりが支えているわけです。でもそれでいいじゃないか、と考えるのがこの時代の庶民の生活の倫理なのです。
人間関係の倫理
私は30年ほど前に書いた『江戸の想像力』という本の中で、「連」の思想を提示しました。江戸時代のものづくりの世界、そこに現れる人間関係のことです。
そのわかりやすい例として、俳諧連句があります。俳句という言葉は明治になってつくられた言葉で、江戸時代には存在していません。俳句というのは五七五をひとりで詠みます。江戸時代にはそういう習慣はないのです。
もちろん、松尾芭蕉は旅をしながら、五七五をひとりで詠んでいます。しかしそれは俳諧連句のために準備した句なのです。芭蕉の旅の目的は京都や名古屋、仙台などを旅し、地域の人たちと交わり俳諧連句を詠むことでした。旅の最中、地元の人びとが芭蕉の生活を支えてくれます。そこでみんなと俳諧連句の座を持っています。俳諧連句は最初の人が発句を読み、他の人たちは二句、三句と続けていきます。五七五七七、五七五七七…と続き、江戸時代では36句が定形となります。芭蕉がはじめの発句を詠むわけですが、旅の間、座に備えいつも頭の中で五七五をつくって鍛えていたわけです。
複数の人で詠んでいくのですが、そこに規則があります。人間関係ととてもよく似ています。「付かず離れず」という規則です。五七五と七七との関係は、付きすぎてはいけないし、離れすぎてもいけない。うまくない人は、どうしても前の人がつくった句に引きずられてしまいがちです。ともすると同じような句になってしまう。これを「付きすぎ」といいます。
では自分だけ目立てばいいのかというと、そうではありません。「離れすぎ」てもいけないのです。
文芸好きの人たちは俳諧を少年の頃から学びます。6、7歳のときからはじめる子もいますし、寺子屋で習いはじめる子もいます。非常に多くの人が俳諧を通して、付きすぎず離れすぎない関係を学んでいるのです。
縁側関係
江戸時代の人間関係で、もう一つ私が注目しているのが、「縁側関係」あるいは「あがりがまち関係」です。
これは私自身の経験でもあるのですが、私は下町の長屋で育ちました。1950年代、60年代の長屋というと、暖房はありましたが冷房などありません。夏になると、風通しをよくするためにどの家も扉や窓を全部開けっぱなしにします。そういう状態ですので、家の前を通った同じ長屋の人がスッと縁側まで入ってきて座り、家の人と会話をします。また日本は湿気が高いので、たたきに入ると床が椅子の高さくらいになっています。そこにも人が座ります。
ただし、縁側やあがりがまちに座った人は、そこから中に入ることはありません。座ったまま家の中の人と会話をするだけです。どういう人がいるか、赤ん坊がいるか、病人がいるか、だいたいわかります。しかし、中に入りこんで、「どうしたの」なんてことは聞きません。
私たちは時代劇なんかで江戸時代の長屋を見ると、おせっかいな人たちだと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。わかっている、でも口は出さない。しかし必要なことがあれば必要なことをやる。付きすぎない離れすぎない関係なのです。
循環と持続の思想
こうした江戸時代に見てとれる倫理、価値観の根本にあるのは、循環と持続の思想です。彼らの考える循環とはどういうものか。基本的には春夏秋冬、四季のめぐりです。来年も今年と同じくらい恵みがあったらいいなと考えるのです。収穫の悪い年なら、来年はいつもと同じくらいに戻ってくれたらいいなと願います。右肩上がりという発想はないのです。それが積み重なって持続になります。
我々は今日、「持続可能社会」という表現をよく使いますが、江戸時代は持続可能社会ではなく、持続社会なのです。現実に持続社会をつくりあげている。また、持続するためにはどうすればいいか、計画する社会なのです。
リサイクルの実際─下肥と呉服
具体的にものの循環がどう行われているのか。
水道、ゴミ箱、共同トイレの後架、これは長屋の3点セットです。水道は井戸の下に通っています。下にパイプが通っていて、そこに山から水が引かれています。排水設備ですね。
ゴミ箱にゴミが溜まれば回収に来るしくみも整っています。
後架も、排せつ物を溜めておくと業者が取りに来ます。業者はそれを舟に乗せ農村に運び、発酵処理をする。その後いったん下肥問屋に集積して、商品として農村で販売します。業者がお金を出して排せつ物を買い取っていくわけです。そういうリサイクルシステムが整っていますので、排せつ物が町の中に投棄されたり、川に垂れ流されたりということはありません。
こういったリサイクルは、江戸初期の段階において整えられました。
次に着物の循環についてもみておきましょう。江戸時代、呉服屋を中心に日本の大企業が次々と生まれていくわけですが、その根幹にあるのはリサイクルです。
呉服屋では着物は売っていません。売っているのは反物です。新品を買う人しか呉服屋には行きません。呉服屋で新品を買い、着物に仕立て、ある期間着たあとは、質屋に入れたり子どもに譲ったりする。あるいは何度も着て洗い張りに出し、だんだん色があせてくると古着屋に出したりします。
呉服屋とは違い、古着屋では着物を売っています。洗い張りをして売ります。家から出られない人のために訪問販売をする古着屋もあります。そして古着はくり返し循環するうちに、布団皮、風呂敷、袋物になり、壊れ物クッションに姿を変えていきます。そして使えなくなると、かまどに入れて燃やしてしまうのです。燃やすと灰になるわけですが、今度はそこに灰買いと呼ばれる人がやってきて買っていく。その灰は染め物に使われたり、洗剤として使われたり、畑の肥料として使われたりします。完全に循環しています。
グローバル化に晒された江戸時代
江戸時代にはとてもたくさんの外国文化が入ってきています。外国からものを輸入して、その優れたところを学びながら、自らも技術力をつけてものをつくっていくという時代です。逆に言うとそれまでの日本はそうではなかった。技術力はなかったけれども、金、銀、銅をたくさん持っていましたので、主に銀で中国とインドから大量にものを買っていました。当時の高級品はすべて輸入品でした。
しかし、高級品を輸入品ですませていると、自分たちの技術の発展はありません。
戦国時代の終わり頃になると、銀が枯渇しはじめます。また、スペイン人がアメリカを発見したあと、アメリカで大量の銀が発掘されます。競争力でも日本は負けてしまった。そこで焦った日本は海外を侵略します。2度にわたる朝鮮半島侵略ですが、これは失敗に終わります。敗戦により日本はいっそう経済的に疲弊することになりました。
こうした情勢により、江戸時代の徳川政権は、日本を生き延びさせなければならないという使命を負っていたのです。
新しく出発した幕府は何をしたか。まず朝鮮半島との良好な外交関係を確立しました。当時の朝鮮王国は最高峰の活字の技術を持っていました。中国からの様々な書籍の経由地ともなりました。日本の文化と教育にとって朝鮮王国は欠かせない国でした。
同じように琉球王国やオランダ東インド会社とも契約関係をつくっていきます。東インド会社を通じてヨーロッパ、アジアの多様なものが日本に持ち込まれました。そしてオランダ医学も入ってきます。
世界はすでにグローバリズムの時代になっていましたが、ものづくりの国をつくりあげることによって、日本は生き延びたのです。そういう状況の中で江戸の循環社会は確立しました。資源を無駄づかいすると明日がありません。循環させ持続するためにはどうすればいいのか、考えながらつくりあげてきた社会です。