特集1 地域紹介シリーズ(11) 宇治久世悠久  PDF

特集1 地域紹介シリーズ(11) 宇治久世悠久

 地域紹介シリーズ第11弾となる「宇治久世」座談会を、平等院内にある最勝院で開催。出席者は宇治久世医師会の土井邦紘氏、門阪庄三氏、松田かがみ氏、寺崎充洋氏、増井明協会理事、礒部博子協会理事(司会)で、宇治久世の地域医療の移り変わりと現状を語っていただいた。また、ゲストに宗教法人平等院事務局長の宮城宏索氏をお招きし、平成の大改修を行った平等院の裏話や、地域の歴史などについてお話しいただいた。

第1部 貴重な文化財 後世に伝えるために

鳳凰堂の歴史と黄金の30年

 宮城 そもそも平等院というのは、どこの宗派にも属さないという非常に変わったお寺で、おおむね江戸時代から、浄土宗と天台宗の2カ寺が平等院を管理するという、非常におもしろい構成になっています。
 平等院鳳凰堂は藤原頼通が創建したものですが、おおよそ150年から200年に一度は解体を伴う大規模な修理、またその間の50年から70年の間に、解体を伴わない小・中規模の修理を繰り返して現在に至っています。明治政府になって初めて、お寺に文化財的な価値を認めて、国が関与する形での大きな修理を行いました。
 直近では、戦後間もなくの1951年から約7年間、鳳凰堂の中心のお堂を解体して大規模な修理をしています。これは国の復興のシンボルとして行われ、文化的なところに国民の目を向けさせるという意味合いも大きかったのかもしれません。当時、国宝の修理として最初に着手したのが平等院鳳凰堂と中尊寺でした。
 明治から戦後しばらくは、平等院に拝観に来る人は非常に少なかったのですが、この修理と同時に大きな転機を迎えます。戦後から非常に出生率が上がり、その方たちがちょうど10歳から15歳になった時期に、日本では修学旅行が始まりました。当時の行先としてまず挙げられたのが、京都・奈良のお寺、伊勢神宮などだったのです。昭和修理以後の日本の高度成長と相まって、平等院は非常に多くの拝観者を受け入れることになります。それから30年、運営に何の支障もなく、経営的なことは全く考えずに過ごしてきたのだろうと思います。

ボリュームゾーンで立て直し

 私が大学を出てこの仕事についたのが1988年、ちょうどバブルの真最中でした。子どものころ川崎病を患い、もともと心臓が悪かったので、一般企業で働くのは無理だろうと何の考えもなしに家の仕事についてしまったのですが、その当時平等院は非常に硬直化した組織になっていました。あと10年から20年で小・中規模の修理の準備をしなければならない。修理をやることを大前提として組織の立て直しを図らなければ、平等院自体が回っていかないというのが、この時期の私の大きな課題でした。
 そこでまず考えたのが、宝物館を建て替えて代替施設化を図ろうということで、そのための資金計画と国との折衝を始めました。同時並行で退職者のフォローとしては、一般企業と同様にパート採用へと切り替え、人件費の削減とランニングコストを下げるということをやりました。
 準備中に阪神大震災が起こり、平等院自体は大きな影響はなかったのですが、国の方針で調査した結果、2005年までには仏像などの修理が絶対に必要という通知を受け、大急ぎで宝物館の建設に入り、2001年に鳳翔館としてオープンさせました。その後03年から08年まで、本尊と天蓋の修理を行い、その間なんとか宝物館で一般のお客様をお迎えしながら運営しました。一方で鳳凰堂本体の修理に向けてもいろいろ実験・準備を行い、鳳凰堂修理に着手したのが2年前で、この9月に何とか落成にまでこぎつけました。
 私が仕事を始めて2年目あたりの1990年の人口動態をみると、昭和修理が終わった後に大量にお越しになった層が、30年後には40代、50代でした。大学を出たての若輩者であった私は、このボリュームゾーンをおさえるということが、たぶん我々の運営上欠かせないだろうと考えました。

平成修理のポイント

 今回の鳳凰堂の修理では、960年前の創建当時に近い形で修理を行うことを目指し、あらゆる科学調査を10年くらい前から繰り返してきました。
 今回の修理の一番大きなポイントは木部の塗装で、科学調査に基づき、酸化鉄、いわゆる「丹土」を膠で塗るという昔ながらの工法で行うことになりました。これが昭和の修理では、なぜか神社に塗る「鉛丹」というオレンジ色のような塗料で塗っていたんです。今回の修理ではきちんと科学調査をして平安時代に使用されたものを確認し、当時使用されたことが判明した酸化鉄を使って塗装をしました。
 屋根瓦は、平安の瓦が700枚くらい、鎌倉・室町・江戸それぞれの時代の瓦が少しずつ残っていますので、使えるものは再利用しました。残念なことに、明治修理と昭和修理の瓦は劣悪な状態でしたので、正面部分は全て平成の瓦で造り直しましたが、新しい瓦は燻をかけずに古色仕上げという焼き方をしています。そもそも平安時代にはまだ燻をかける技術はなく、当時の形に復元するという意味では、非常に近いものになったと考えています。
 鳳凰・露盤宝珠や垂木の先の金物などは、平安時代と同様に全て鍍金を施しました。ただし、平安時代の鍍金は水銀の中に金を溶かし、その後に熱をかけて水銀を飛ばすという方法だったのですが、これをやると水銀中毒になってしまいますので、今回は金箔を漆で貼るという方法をとりました。ここだけが違う工法なのですが、約7重に金箔を貼り、フッ素コーティングをして、10年から15年は風雨に耐えられるような形での仕上げにしてあります。
 私自身、この30年の間にやはり無理がたたって、30歳ぐらいのときに心室頻拍を起こすようになり、アブレーション、植え込み型の除細動器などのお世話になりながら今日に至っています。正直、医学の進歩が平等院の修理にも大きな影響を与えているなあというのが個人的な感想です。
◇   ◇
 土井 時の藤原家の別荘が、この地域にたくさんあったとお聞きしていますが、なぜ鳳凰堂だけが残ったのでしょうか。
 宮城 平等院はものすごく大きな寺域でしたが、ことごとく残っていません。鳳凰堂だけが奇跡的に残ったのは、池に囲まれていたので類焼しにくかったのではないかと言われています。楠正成が後醍醐天皇を南朝の奈良へお連れするときに、追っ手を防ぐために宇治の町に火をかけて、平等院も灰燼に帰すという記録がありますが、やはり鳳凰堂だけは残っているので、本当に不思議です。
 増井 鳳凰堂の修理で使われた平安時代の色合いというのは、古い寺院修理ではポピュラーなものなんでしょうか?
 宮城 丹土(酸化鉄)に関しては、奈良から平安にかけては間違いなく多く使われていました。それが、江戸期になるにしたがってほぼ鉛丹が使われるようになり、平等院でもその時期には鉛丹が使われていますので、何がセオリーかはその時代によって左右されることが多かったようです。特に明治修理はかなり乱暴で、日露戦争でトーチカを造るのに多用されたコンクリートが庭園の一部に使われていたものですから、それをまた元の形に戻しています。
 今回の修理方針の中に「可逆性を維持する」とありますが、これは、何かあったら元に戻せるように修理をしましょうということです。昭和の頃は、樹脂系のもので何でもかんでも固めていくような文化財修理をやっていた時期があったのですが、今は逆に、漆とか膠など昔からのものを使うという方針に変わってきています。
 増井 修理後の平等院は非常に鮮やかで、鳳凰もきらびやかで美しいと思うのですが、色というのは全体で見たとき、ちょっと「え?」と思うときがありますよね。正直、いかがでしたか?
 宮城 全体に塗ったときのトーンや耐久性がわからなかったので、実際鳳凰堂を修理する前に、鐘楼、表門、南門で、それぞれ少しずつ成分を変えてテスト的に塗ってみて、その中で判断しています。加えて、今は強制的に劣化させることができるので、劣悪な環境の中でどれが一番耐久性・耐光性があるのかをテストし、最適な方法で修理を行っています。
 土井 宮大工の話で、江戸時代ですでに技術的には落ちかけているとよく言われています。長く残っている平等院で、その一端をうかがわせるようなことはありますか? 平等院は非常に古い建物ですから、いろいろな部分が時代的に残ってきていて、そういうことが考証できないかなと思うんですが。
 宮城 クレーンも何もない平安時代に鳳凰堂を2年くらいで建てているほどですので、この時代の木工技術は本当にすごかったのだろうと思います。江戸時代までは、お城や寺を造る技術自体がそんなに衰えていたかどうかわかりませんが、明らかに明治以降は、材木がなくて新しい大きな木造の建物もできないし学べないということで、どんどん技術が衰退していったのは間違いありません。
 なかなか痕跡だけを見て調べるのは難しいですが、仏像に関しては、技術的なものから修理を必要とするものなど、けっこうきちんと体系的に残っています。
 木工で物を建てていくのは今の時代では非常に難しいので、そういった技術を伝承する機会が、文化を守るという意味でもあればいいなと個人的には思っています。奈良の大極殿もいろんな形で非難はあるものの、そこで宮大工の技術の伝承が少なからずされている面もあり、決して無駄ではないのではないかと。
 礒部 お話も尽きないようですが、次に移りたいと思います。興味深いお話をありがとうございました。

第2部 医療の視点から見るこれからの地域

 礒部 それでは引き続き、地域医療についての座談会を行いたいと思います。まず、宇治久世医師会の土井会長から、現在医師会で取り組んでいる活動や今後の課題についてお話しいただければと思います。
 土井 2006年6月の医療制度改革では、療養病床は38万床から15万床に削減し、民間のほうにケアハウスや老人介護施設を造ろうというのが当初の趣旨であったと思います。ところが先生方も地域で紹介する先に困っています。患者さんもどこの病院、施設に行っていいかわからないというのが現実で、やがて団塊の世代が老年期に入ると大変なことになります。そこで宇治久世医師会としては、在宅医療、病診連携、診診提携に重点的に取り組んでいます。

地域に拡がる認知症ケアの取組み

 礒部 宇治久世では早くから在宅医療にも熱心に取り組んでおります。門阪先生いかがですか?
 門阪 宇治市は認知症ケアに関しては非常に恵まれた地域で、府立洛南病院や宇治おうばく病院があり、専門医もたくさんいます。また、行政も認知症対策には熱心で、先日も、認知症への理解を広めるリレーマラソンに山本宇治市長が参加されました。当然、我々が3本の矢の最後の一つなので、二つの機関と協力して認知症のケアを進めていきたいと思っています。
 認知症施策であるオレンジプランで重要なのは、まず、認知症のサービスプランが1枚の地図で全部わかる「認知症ケアパス」をみんなで勉強して下さいということ。もう一つは、小・中学校区ぐらいを単位とした地域で、専門職や市民の代表が話し合う小地域ケア会議を開くこと。そして、各地域で認知症の方が気軽に行ける認知症カフェをつくること。宇治市の場合は「れもんカフェ」と名付けていますが、病院には行けないけれどもそこに行けば認知症の相談が受けられる、認知症の人が楽しく過ごせるという居場所づくりですね。宇治市内の六つの認知症カフェのうち一つは、私が代表をしているNPOの「カフェ頼政道」で、古民家を借りて認知症ケアをやっています。そういういろんな取り組みを、国、京都府に先駆けて宇治市は行っているので、それを我々が側面から支援し、その態勢を来年度からもっと強力にしたいと思っているところです。
 増井 認知症カフェというのは、先生もそこへ行かれて、認知症患者の家族の方の相談にのったり、アドバイス的なことをされるわけですか?
 門阪 だいたい2時間くらいで、勉強会、居場所、相談機能の3部構成ですね。私のところではみんな、認知症になるのはあたりまえだと思って来ています。「認知症にはなりたくない」という言葉をよく聞きますが、誰でもなりうる病気だし、避けがたいので、認知症になっても全然かまわないんだよと。少々記憶がなくても、不便だけど、べつに不幸でもなんでもないよという話をしているわけです。認知症に対する偏見、「あれだけはいやだ」というようなことをまず取っ払わないと、なかなかうまく対応できないと思います。
 増井 「私の主人が、父、母が認知症じゃないか」という相談を受けたときに「カフェがあるよ」という説明でもいいわけですね。そのほうが敷居が低いし、聞きやすいですよね。
 門阪 医師に相談されるのも当然だと思うんですが、女性の認知症コーディネーターなら遠慮なく聞けますよね。認知症カフェには、コーディネーターが必ず1人おります。認知症の方全部が専門医に診てもらうのは不可能ですし、かかりつけ医に診てほしいという人も多いと思います。最初の段階は我々が診て、随伴症状が出てきたら専門医にお願いする。そのタイミングさえ間違えなければいいと思います。最初に「専門医がいいですか、私が診てもいいですか」と聞いておいて、ルートを決めるとよいのではないでしょうか。

専門職の連携強化を目指して

 礒部 松田先生は在宅クリニックをされていらっしゃいますね。
 松田 土井先生のお話にもあったように、病気の方、認知症の方が地域で過ごすという方向になっていくときに、介護保険と医療保険、生活と治療という両方の関わりがとても必要だと思うんですね。制度の壁はもちろん取り払わなければなりませんが、現場でも介護職、看護職、薬剤師、歯科医師、医師、全ての方が連携して、少ない家族をサポートしていくことがとても重要だと思います。そんな中で、「ふかまるつながる宇治久世在宅事例検討会」が定期的にスタートして、専門職みんなで事例を通して連携を高め、勉強して資質を向上させていくということを始めています。そういうことがどんどん実務として広がっていくと、認知症の方、慢性疾患の方、不自由な方が地域で安心して過ごせるベースになると思います。
 増井 私の場合も、このごろ往診が増えていますし、「いつでも気になることがあったら電話して」と言っていたら、時々とんでもない時間に電話がかかってきたりして、在宅というのは大変だなあと思います。そういう意味で、2人主治医というのは補い合える部分があると思います。ただ、定期的に診療情報提供者間でやりとりをしておかないといけませんが。
 松田 高齢の方、認知症の方、慢性疾患の方、神経難病の方、骨折など整形の範囲、脳外科の範囲、ありとあらゆる通院が困難な方で、なおかつ入院は不要な方が、どういうふうに治療を受けて生活していくかというところで、在宅の需要はどんどん増えていると思います。
 増井 例えば内科系で診られること、褥瘡だとか外科系が必要なことを、医師会の中で相談し合えるネットワークがあったらよいなと思うときがありますね。
 松田 そうですね。私は個々に相談させてもらっていますが、自由にそれができれば患者さんにすごくメリットがあるんじゃないかと思います。
 増井 一時、医師会のメーリングリストという意見もありましたけど、いわゆる個人情報ということを考えると、どうなのか…。
 土井 我々の仲間だけで、匿名で一般的な形での質問と応答ということなら、メーリングリストは非常にやりやすいと思います。グループの中での話が他の先生方にも伝わっていくと、だんだんと気運が広まってきて、みなさん協力的になっていくのではないかと期待しています。
 礒部 私は皮膚科専門で開業していますが、週に何回か病院に行き、褥瘡なども含めて診て回ることはしています。在宅の主治医は内科の先生が多いですが、皮膚のこと、褥瘡のことで困っていることがあれば、日を決めてそこに私が往診に行くとか、相談だけでも受けるとか、そういう面で力になれるかなとは思っていますが、どういうふうに協力できるか模索している状態ではありますね。
 土井 今後、急性期の病院(病棟)からかなり重症な人が帰されるわけで、場合によっては気管切開など小外科的なことが必要になってくるので、寺崎先生のような外科の立場の人にもこういう連携に加わってもらわないといけないでしょう。
 寺崎 在宅医療に絶対欠かせないのが病診連携ですが、心房細動や脳卒中の病診のパスについては、今のところ検討中です。11月には、病院と開業医の先生方に集まっていただいて、勉強会(医療研究交流会)を開きます。市民向けにも認知症をテーマとした市民フォーラムを行います。門阪先生や松田先生にもご協力いただいて、先ほど言われたようなことをぜひとも市民に向けてもアナウンスしていただきたいです。
 在宅に外科医が登場することはあまり今までなかったのですが、気管切開の在宅などはあるんでしょうか?
 門阪 たくさんあります。内科医が気管切開しているところも…。宇治市では今、年間1600人くらいの方が亡くなられますが、10年後にはそれが今より600人くらい増え、入院する人も増えるとなると、大変な時代が来ることになります。そのうえ、宇治市の1世帯平均の家族数は2・3人ですから、10年後にはほとんど夫婦2人で住んでいて、片方が死に至る病気になったときに、どこの病院がケアしてくれるのか…。私の患者さんの状態が悪くなり在宅で診るという場合は、家族の人も知っているし、信頼関係があっての話ですから、わりとやりやすいですが、大きな病院から送られてきて、あれよあれよという間に悪くなられたら、もう本当につらいんですよね。
 土井 急性期の病院(病棟)の在院日数が限られてくると、少々重症でも退院させないといけない。そうすると引き受け先となる医院等にまだなじまないうちに変化が起こり、患者さんや家族にとっては不満が出てくる。そういうときに2人主治医制というのはある程度救いになるかもしれないけれど、団塊の世代が老年期に入れば、そんなことでは間に合わない。さらに急性期のみならず、慢性期・回復期の病院(病棟)からも各々逆紹介率が定められており、退院を迫られることが多くなります。けれども一般の人たちは、大変な時代が来るということはあまりご存じないのではないでしょうか。
 門阪 そういうことを、あまり国も言わない。私たちが言わないとだめなんですね。
 礒部 宮城さんは、医療関係者でない立場からみて、今のお話をどのように受け取られましたか?
 宮城 30代から何度も入院して、病院の状態はしょっちゅう見ているので、これは本当に大変になってきているなあというのは、肌で感じます。経済誌を読む中で医療関係のデータがよく出てくるのですが、京都はグループホームやサービス付き高齢者住宅など、民間がやるような新しいタイプの施設の参入率が非常に低い。記事いわく、在宅患者さんの比率が他府県よりも高いらしいです。ですから、在宅医療の重要性はより高いのではないかと思います。
 それから、この近隣では独居の方が非常に多い。この中宇治はまだ町内での見守り、行政からの巡回確認が効いていますが、どんどん数が増えてくると、そういった機能自体が本当に維持されるのか、ものすごく不安があります。

高齢者が健康で暮らすために

 礒部 京都は在宅医療が盛んだというお話が出ましたが、これを維持するには、地域の住民が健康を保ち、お互いに支え合って暮らすことが重要になってくると思います。これも宇治久世の特徴の一つだと思いますが、増井先生が力を入れておられる特定健診については、いかがですか?
 増井 特定健診というのは5年ほど前からで、それまでは宇治市は市民健診と言っていました。市民健診は宇治市に住民票があればずっと受けられたのですが、特定健診になってからは、社会保険の方は健保組合に申し込んで受診券を受け取らなければならなくなり、おそらくその手間で受診率が落ちて、2013年度の宇治市の特定健診の健康診査、後期高齢者も含めての受診率がだいたい33%くらいです。医学には、病気の診断、治療、予防という三つの過程があると言われています。特定健診は行政もかなり補助をしてくれていますので、有病者にならないためにも、受ける権利のある方は受けたほうがよいと思います。それを一般の地域住民にどのようにアピールするかは、診察に来られる患者さんに直接お勧めする他、行政にも、もう少しアピールする方法を考えてもらえたらと思います。
 土井先生のご尽力で、行政の方とも直接お話しする機会が増えていますし、その都度両方から知恵を出し合って、受診率を向上させるため何かいい方法はないかと考えていきたいです。

地域の人とともに歩む医師会へ

 土井 今お話しいただいたように、宇治久世医師会各会員にはいろんな面で活動・活躍していただき、ありがたいと思っています。この地域は、大きな病院が二つ、その他にも病院が14ありますし、在宅医療で診てもらうこともでき、病診連携・診診連携もこれからさらに深めようとしています。それからもう一つ、宇治久世は散策・運動するのに適した環境で、健康寿命を延ばすのにも非常によい条件が整っています。そういうとても恵まれた地域です。
 今日お話しいただいたように、政府の医療施策に対応するには我々医師会だけではだめなので、行政をはじめとして多くの関係の方や一般の人たちに協力願いたいと思います。

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