忘れ得ぬ症例 想定外ではすまされぬ  PDF

忘れ得ぬ症例 想定外ではすまされぬ

砺波博一(綴喜)

 医者は患者さんに教育される。これは実地医家であればだれしも実感されることではないでしょうか。大学勤務、病院勤務、そして開業医時代とたくさんの患者さんから教育の機会を得ることができました。これらの経験が開業医となってからずいぶん役に立っています。忘れられない症例もたくさんありますが、開業して間もないころに経験した症例を紹介したいと思います。

 開業して4カ月目のある日、風邪のシーズンも終わり、もともと少ない患者さんは更に減り、午前中の診察を終わりました。昼食を外食ですませ診療所に帰る途中で転送にしている携帯が鳴りました。聞き取りにくい声で、「診てもらえますか、怪我をして顎を切っています」とのこと、「近くの方ですか、今すぐ来られますか」と問うと「はい」との返事、内科を標榜しているものの、元は外科系、小手術ぐらいは対応するつもりで開業しましたので、早速診療所へ取って返し縫合の準備をし待ちましたが、なかなか患者さんは来ません。1時間は待ったでしょうか、玄関のチャイムが鳴り、中年の男性がゆっくり入ってきました。診ると下顎がぱっくり割れています。バイクによる自損事故で全身に擦過傷があります。頭は打っていないとのこと、横になってもらって縫合をしようとした時でした。急に顔色がわるくなりその場で動けなくなりました。顔は青ざめ、お腹をおさえだしました。腹部を診ると、お臍の左に小さな皮下出血があり、押さえると圧痛があります。縫合どころではありません、大急ぎで血圧を測りました。血圧は80以下、橈骨動脈も触れにくい状態です。すぐに点滴ルートを確保し、大急ぎで救急隊へ連絡しました。救急車が到着するまでの時間がこんなに長く感じられたことはありません。腹部血管損傷の可能性があり、基幹病院への搬送を依頼しましたが、なかなか診てくれる病院が見つかりません。なんとか搬送できた病院でも結局は処置できず、さらに高次の病院で緊急手術を行い、かなりの量の輸血を行ったようです。病名は腹腔内出血(腸間膜損傷)で小腸・大腸部分切除、血腫除去術をうけました。約1カ月後退院した患者さんが来院されました。当時のことはあまり覚えていないとのこと、当日一番あわてていたのは私のようでした。まさかこんな小さな診療所にこんな重症患者が受診するとは思ってもいませんでした。今回はなんとか一命をとりとめ、感謝もされましたが、今後は小さな診療所であっても、想定外の患者さんが来るものとの気持ちで日々の診療に当たらねばと心に誓いました。

 最近盛んに使われる「想定外」という言葉は、単なる責任逃れでよく使われているようですが、医療の世界では想定外という言葉で責任を免れることはできません。開業直後の思い出深い症例です。

ページの先頭へ