先生の趣味拝見! ようこそ、ブリキのおもちゃ博物館へ
その博物館は、産科・婦人科松本クリニックの一角にひっそりとある。
院長の松本央医師(下京西部)の趣味はブリキのおもちゃ収集。案内いただいた12畳ほどあるコレクション・ルームには、ブリキのおもちゃが整然と壁一面のショーケースに並べられていた。
コレクションの中心は1950年代製のものだが、中には明治・大正・昭和初期の作品もあり、今や3000点ほどになるという。たまたま入ったおもちゃ屋で見かけた非売品のブリキのおもちゃに魅せられ、頼み込んで手に入れたことをきっかけに、以来松本医師の収集歴は約15年となる。
コレクション・ルームのBGMは、50〜60年代の音楽という凝りようだ。松本医師は「父が厳格で、おもちゃを買ってもらった記憶がない。子どものころは、友達のおもちゃで遊ぶくらいで、羨ましかった。その反動もあるかもしれない」と振り返った。
ブリキのおもちゃの魅力の一つに「にび色(鈍色)」というものがある。これは、一般的には濃い鼠色のことを指すが、コレクターの間ではおもちゃの塗装が年月を経て丸みのある艶深い色に変化したことを指す。塗装の定着のために鉛が混ぜられたことで起こる経年変化だ。また、ブリキのおもちゃの中でもロケットやロボットなどのスペースもの、自動車もの、船舶ものなどのカテゴリーがあり、常に高い人気を博すのはスペースものということだった。
松本医師のコレクションには、ブリキのおもちゃコレクターの第一人者として世界的に知られている北原照久氏も持っておられないものがあり、それが自慢と笑っておられた。
ブリキのおもちゃは日本でも明治の頃から作られていたが、主に海外に輸出するためのもので、日本の子どもが遊ぶためのものではなかったそう。戦時中は壊滅状態となったが、終戦の年に進駐軍が放出した空缶を原料に、ブリキ玩具職人の小菅松蔵氏がブリキのおもちゃを作成し、京都の丸物百貨店で販売。爆発的な売れ行きを見せた。進駐軍の兵士が帰国時のお土産として購入したそうだ。これが戦後第1号のブリキのおもちゃで、その後の金属玩具業界復興のきっかけとなったといわれている。コレクター垂涎の作品で、通称「小菅のジープ」と呼ばれる。松本医師も所有しており、ジープに人形が乗ったバージョンを見せていただいた。
松本医師は「コレクションを集めて、飾って、眺めるということがなにより楽しい。コレクション・ルームに一歩足を踏み入れると、日々の緊張から解き放たれてリラックスした時間を過ごすことができる」と目を輝かせて語って下さった。
また、自身の死後、コレクションがどうなるかと思い、お子さんに「どうする?」と聞いたところ、第一声が「いやや!」。父親がいなくなる話がいやなのかとほろりときたら、続けて「兄弟でケンカになるから、どれが誰のものかちゃんと書いておいて」とのこと。しょんぼりしたと笑って話していただいた。