社会的弱者をお荷物と見る危ない傾向
読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平
不利や困難な状況にある人々を助けるためにある社会保障制度を、不利や困難な状況にある人々を攻撃する論拠に用いる。そういう逆立ちした議論がこのごろ目につく。
高齢者、病者、障害者、貧困者などを、社会のお荷物と見る傾向である。
高齢者の年金、医療、介護費用がかさんで財政が大変だ、そういう政府発表や報道がしょっちゅうある。見聞きしている高齢者は肩身の狭い気持ちになる。まだ高齢でない人からの視線もきつくなる。
高齢者の医療費にムダが多い、寝たきりになったら医療で長引かせずにさっさと死なせろという意見は以前からよくある。超高額の抗がん剤をめぐって「多数の患者に使うと医療保険財政が破綻するから、高齢者には使用を制限せよ」と主張した医師もいる。
医師の指導に従わずに糖尿病から人工透析になった患者の医療費を自己負担にせよと主張した人物も、医療保険の財政負担を理由に挙げた。
この手の自己責任論は際限がなくなる。喫煙者の肺がんやCOPDを標的にする意見はすぐ出てくるだろう。酒を飲む人の食道がんも、塩辛い物を食べる人の高血圧も、ビール党の痛風も、ワクチンを打たない人の感染症も、自己責任にするのだろうか。
生活保護の利用者、貧困世帯へのバッシングもすさまじい。ネットには暴言がまきちらされている。ホームレス状態の人々は、しばしば少年たちから価値なき生命として襲撃され、殺されてきた。
そして相模原の施設で起きた殺傷事件。重度の障害者はいないほうがよいと確信して犯行に及んだ加害者は、大量殺害を実行すれば政府から感謝されると考えていた。
彼の動機形成の根底にも、近年の社会風潮があったのではないか。社会の役に立つかどうかという経済至上主義、勤労至上主義に加え、社会保障の財政負担を理由に、給付を受ける人々をマイナスの存在とみなす感覚である。
その種の議論の動機は、国全体のことを考えた社会保障論だけではない。財政負担が増えると自分の税金や社会保険料の負担が増えるから気に入らない、だから社会保障費を使う人間をたたくという発想もあるようだ。これは社会保障費の奪い合いである。
背景には日本経済の長期にわたる停滞、高齢化・少子化の進行、経済的な格差の拡大がある。いらだちと足の引っ張り合いが増え、世の中の空気がギスギスしている。
財政収支は大切だし、社会保障も効率的な運営が必要だが、経済や財政や制度のために人間がいるわけではない。
社会保障の支え手、受け手を線引きし、人が財政的に見てプラスかマイナスかを論じていくと結局、お金を物差しにして人間の存在価値を決めることになる。あまりにも貧しい思想ではなかろうか。
共同体に困っている人がいれば助け合おうという考え方を基本にすべきではないか。
あらゆる人に個性と尊厳があり、よりよく生きる権利がある。すべての人に存在価値がある。人間の存在に軽重をつける差別思想と闘うことこそ、相模原事件のような事件を防ぐ根本対策でもある。