エッセイ お医者様はいらっしゃいませんか 岩本 恒典(乙訓)  PDF

「お医者さんはおられませんでしょうか?」
飛行機などで移動中にこんな放送を聞いたことがありませんか。どうします? 何かトラブルになったり、思わぬ結果で医事紛争になったりするかもしれないから無視する、という意見もよく聞きます。私は救急医療を少しですがしていたので、すぐにお尻が浮いてしまいます。最初は1985年マルセイユの病院を訪問する際でした。当時はアラスカを経由してヨーロッパに飛んでおり、アンカレッジで一旦降りて、エコノミーの狭い座席から開放され、巨大な白熊の剥製の周りを歩き、旨くないウドンを食って、また同じ12時間以上座席に縛り付けられたものでした。アンカレッジに着陸態勢に入ったとき放送があり、行ってみると中年の男性が通路に横たわっています。傍にいたキャビンアテンダント(当時の呼称はスッチー)に聞くと、座席で意識を失ったとのことです。呼吸・脈に異常なく、顔色も悪くありません。アルコール臭がします。腹をつねると顔をしかめます。飲み過ぎじゃないですか? 寝かして様子をみましょうと告げました。アンカレッジに着陸すると私服の男性が乗り込んできて、空港のドクターだと名乗りました。“彼はこのままフライトを続けられるか?”と聞いてきます。降ろすのは可哀想なので“大丈夫だろう”と答え、旅行を続けさせることになったのですが、離陸すると不安になってきました。何の医療器機も、薬も持たず、相談する同業者もいないのに本当にパリまで無事に着けるのだろうか、降ろしといたほうがよかったかなと、暫く後悔したものです。飛行機からはお礼としてファーストクラスで渡される洗面道具の入ったポーチを貰いました。これをいまだに使っていて、旅行の時ニトロや鎮痛剤を入れて機内に持ち込んでいます。
新幹線でもありました。九州へ向かっていると“お医者さんいらっしゃいましたら*号車までおこしください”と。30代の男性が席で痙攣を起こしていました、暫くすると治まり、キョロキョロあたりを見回して“ここはどこ? 私はだあれ?”の感じです。“てんかんの発作ですね”。次の岡山駅で降りて病院に行ってもらいました。JRからは何のお礼もありませんでした。
2000年1月ポンペイの遺跡見物に行き、石柱が並んだ広場を歩いていたら、後方から叫び声がきこえました。振り向くと誰か倒れています。“アイマドクタ”と声かけて近寄ると金髪の女性で、黒い毛皮のコート、豪華なイヤリングとネックレス。見るからに金持ち風の高齢のご婦人でした。意識なし、呼吸なし、心拍・頚動脈搏動なし。胸骨下端あたりを拳で一発叩き、心マッサージ。いち、に、さん、しっ、ハンケチで口を覆いマウストゥマウス、近くにいた女性に両脚を挙上してもらい、また心マ。西洋人の高い鼻は、やはりつまみ易いな、などと考えながら口に息を吹き込んでいると、若い小柄な東洋人の女性が寄ってきて“ナース”といったので、マウストゥマウスを交代してもらいました。10分ほどで自発呼吸・心拍再開し、眼を動かし始めました。中年の白人男性がやってきて、婦人の腕を取り、脈を診て顎を上下に動かし合図したので蘇生を中止しました。顔を上げてみると周りに人垣ができていて、その中の一人と目があいました。ツアーのガイドさんでした。彼女は私が気付いたことを認識して、自分の腕の時計を指しました。ああ! 時間がないか。あたりは夕暮れです。まだ暗い早朝にローマを出てナポリ、ポンペイ周遊日帰りバスツアーです。救急車も到着した様子なので、先ほどの男性に“疲れた、変わってくれ”、看護婦さんに“グッジョブ”と声かけてその場を離れました。バスが動き出したところでガイドに頼んで救急隊に連絡してもらいました。心肺停止だったこと、蘇生に10分ほどしかかからなかったこと、不明な点があればこのツアー会社を通して連絡をくれるように頼みました。その後“肋骨骨折させたので訴える”などのクレームも、何の連絡もありませんでした。当時はそんな設備はありませんでしたが、今頃はポイペイのあの石柱や壁画面にもAEDが備えられているでしょう。
2013年フランスからの帰国便はエアバスA380 、2階建て500人乗りの最新鋭ジェットでした。呼び出しに応じて行ってみると、日本人女性が壁際の2段ベッドに横になっていました。シャワーを備えた飛行機とは聞いていましたが、ベッドもあるとは初めて知りました。クルー達の仮眠用なのでしょう。女性はどうも感染性胃腸炎のようで、前日パリ市内で受診し、投薬受けているとのことでした。輸液してあげたら随分違うだろうに、次から輸液道具を持って機乗しようと思いました(ウソです)。アテンダントに色々指示したら、後からお礼と言って高級シャンパンをもらいました。ワインで商売している友人に見せると*万円するらしい。さすがエアフランス。前の丈夫で永持ちのポーチといい、物が違うと、またフランス贔屓になりました。
最近、飛行機では前方の席に座るようになっています。先日も呼び出しに応じようと後方のキャビンを仕切るカーテンを開けると、3~4人の男性が急ぎ足に行く背中が見えました。私の出番はないな。席に戻って再度呼び出しがあるか待ちました。もう私の出る幕がない時代になったようです。これから呼び出し放送があったら、ひと呼吸おいて尻を上げましょうか。

川に浮かんでいるように見えるシュノンソー城(フランス、アンドル=エ=ロワール県、ロワール渓谷内)。夫婦で記念撮影です

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