宝物というと何を思い浮かべるだろう。お伽話に出てくる金銀財宝をすぐさま思い浮かべるのは私だけなのかもしれないが、高級な腕時計やスーパーカーだという人もいそうである。有形無形の国宝はそれこそ国の宝だが、国の宝と言えば、子どもである。多くの親にとっての宝物は家族、とりわけ子どもではないだろうか。その人にとって価値の高いものが宝物である。
大人にはガラクタにしか見えなくても子どもにとっては相当な宝物であることは、大人はかつて子どもであったことを忘れ、それなりに価値観が変化したためである。これは大人と子どもの関係だけではなく、大人同士でも同じことが言える。世の中には収集家と呼ばれる人たちがいるが、何が面白くてあんなものを集めるのか、というのは価値観が異なる人の意見である。「何でも鑑定団」という家庭に埋もれているお宝、特に骨董品や絵画等に真贋を見定めて、しかもその価格まで提示するという視聴者参加型番組がある。絶対に本物と信じる「お宝」と称する品に提供者が300万円を予め示し、その道のプロが鑑定すると3000円の贋作であることが判明したときの、そのご本人の何とも悔しそうながっかりした顔が、視聴者から受けるのである。逆の場合もある。人から貰ってそのまま押し入れに仕舞い込んでいたものを出品したら数千万円の価値がついたということもある。なぜ受けるのかというと、それを「宝物」と信じている、つまり価値のないものを高価で購入し蘊蓄を語って聞かせる人と、ガラクタだと思っていたらとんでもない宝物だったというラッキーな人、というギャップである。
前置きが長くなったが、私の宝物のことである。何の変哲もない木製の椀である。20年近く前の誕生日に息子からプレゼントされた。娘と家内は一緒になって手作りカードを添えたシャツをプレゼントしてくれたが、そのとき息子が少しモジモジしながら包みを手渡してくれたのがこれである。少ない小遣いの中から自分で買える物を探してきてくれたのであろうが、その気持ちが嬉しかった。バカボンの着物の柄のような渦巻きがついていて随分と表面に傷みがでてきたが、今でも毎日これを使って食事をしている。この椀を使うたびに、あのときの息子の何ともいえない表情を思い出す。これからもずっと使い続けるつもりである。
うずまき模様がついています