かんぽう趣談 九 田中 寛之(舞鶴)土佐の偉人  PDF

牧野富太郎ブームが続いている。
 2年前にNHK朝ドラのモデルになってからのことではあるが、ブームが一過性に終わらないのは、その圧倒的な情熱と、変態的とさえ言いたくなるような精密な植物図に、普遍の価値があるからであろう。
 博士の故郷である高知県には博士の偉業を記念した牧野植物園という施設がある。ここにも人が絶えないそうである。

 さて、漢方界にも高知県出身の偉人がいる。昭和漢方中興の祖である大塚敬節である。明治33年生まれの大塚は、故郷である高知から上京した後、臨床と研究の両面から漢方医学に尽くし、現在の日本漢方の礎となった人物である。『漢方診療三十年』など名著も多く、現在でも幅広く読まれている。
 植物学と漢方医学の偉人である2人。牧野は大塚の38歳年上であるが、接点がある。牧野の老年期に大塚が主治医を務めているのだ。その経緯ははっきりしない。同郷のよしみのせいか、大塚の優れた医術が世間に知れ渡っていたせいか、おそらくそのどちらもであろう。
 あと、牧野が薬嫌いであり、漢方薬ならどうにか服用したということも2人を結び付けた要因であるらしい。
 患者と医者という間柄である牧野富太郎と大塚敬節ではあったが、大塚は診療の時以外にも牧野のもとを訪れたそうである。2人は病床で何を語り合ったであろう。「高知」と「植物」という二つの共通点を持つ彼らにとって、話題は尽きなかったはずである。
 昭和15年には大塚らが主催する漢方の学会に牧野が演者として呼ばれている。患者と医者という関係でありながらも、2人はお互いに学者としての敬意を持ち続けていたのだ。

 牧野富太郎はその圧倒的なフィールドワークをもとに、植物学会に名を轟かせた。一方の大塚敬節はこんな句を残している。
 「術ありて後に学あり 術なくて咲きたる学の花のはかなさ」
 高知の偉人は2人とも、理論よりも実地に重きを置いた学者であった。

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