病気を見て、人を見ないようではいけない――というのは、古くから言われてきた医道の教えである。
このごろは、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)が広まってきた。
本人の意思を基本にしながら医療チーム、家族、介護・福祉関係者などが話し合って医療やケアの方針を決めていくのは、当たり前になった。
厚労省が方針決定プロセスのガイドラインを作ったのは2007年。すべての病棟について診療報酬の施設基準で今年度、意思決定支援が義務化された影響もあるだろう。
しかしながら、それは本当にACPなの? という状況が少なからず見られる。
可否がテーマになるのは経管栄養(末梢静脈、鼻腔胃管、胃ろう、中心静脈)、人工呼吸器、水分や薬剤の点滴、人工透析、心肺蘇生など。
それぞれの医療行為の内容や限界、苦痛の程度、リスクなどについて、ろくに説明もしないまま、○×式で回答を求める〈形式的ACP〉が少なからず行われている。
医療行為にばかり焦点を当て、やるかやらないかの答えを早くもらおうとするのは、医療提供側の都合である。
回復が困難な病状のとき、いちばん大事なのは、医療行為の選択よりも、残された時間をどんなふうに過ごすのか、ではなかろうか。
やり残したこと、会っておきたい人、行っておきたい場所があるのか、穏やかでいたいのか、人それぞれである。
その希望に合わせ、どの場所で過ごし、どんな医療手段を用いるのがよいかを考えるのが、本来のACPだろう。
筆者は、複数の病院の倫理委員会の外部委員になっている。いずれも患者本位の医療に取り組む病院で、ほぼ毎回、臨床の事例検討が行われる。
身寄りのない人、家族との関係が単純でない人、やったほうがよい治療を拒む人、暴言を吐く人など、スタッフが戸惑ったいろいろな事例について、意見を求められる。
多いのは、本人の判断能力が低下しているケース。その場合、家族の意見で決めるのではなく、本人なら何を望むかを考えるのが原則である。
検討のとき、しばしばもどかしく思うのは、その患者の「人となり」についての情報が足りないことだ。
病状、診療経過、病床でのやりとりなどは詳しく説明されるけれど、その患者がどんな人か、どういう人生を送り、どんな暮らしをしてきたのかを、スタッフがあまり把握していないことがよくある。
たとえば、80代女性、糖尿病から人工透析になり、認知症も進んできた――というのは病気の説明である。
彼女は専業主婦だったかもしれないし、医療職、教員、工芸作家だったかもしれない。何かの大会で優勝したことがあるかもしれない。震災に遭ったかもしれない。そして、どういう人柄だったのか。
家族や介護・福祉の関係者に尋ねれば、もう少し情報を得られるのではないか。
それらが個々の医療行為の可否に直結するわけではないものの、その人の「人となり」を理解しないで、人生の最終段階のあり方を検討するのは、おそれ多くないだろうか。
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