対抗軸を探る 13 名城大学経済学部准教授 蓑輪 明子  PDF

〈エッセンシャルワーカー〉への注目とその背景
全うに事業する力が失われていないか

 近年、エッセンシャルワーカーへの注目が集まっている。エッセンシャルワークとは社会生活維持のために不可欠な仕事という意味であり、医療・福祉、学校などのいわゆる公共サービス労働のみならず、小売業、物流業、電気・水道・鉄道などの社会インフラを担う仕事など、きわめて多様な仕事が含まれている。日本のエッセンシャルワーカーの労働の劣悪さを描いた田中洋子『エッセンシャルワーカー―社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(旬報社、2023年)は、スーパー、飲食チェーン店、自治体相談業務、保育士、学校教員、ゴミ収集員などを取り上げている。
 エッセンシャルワーカーが注目されたのは新型コロナ禍の時であった。新型コロナへの感染の危険にさらされながら、社会機能維持のために働かなければならない状況はエッセンシャルワーカーの重要性を示したからである。しかもそれが低処遇の雇用であったことから、社会の基幹的担い手ながら、その活動が正当に評価されていないという問題が明るみになったのである。
 アメリカで活動した文化人類学者である故デヴィッド・グレイバーは『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020年)で、エッセンシャルワークが社会的に正当に評価されていないのに対して、実際の生活にはどうでもいいような仕事、やっている本人すらその意義を疑っている仕事、すなわちブルシット・ジョブが増えているとして、その構造を明らかにしている。ブルシット・ジョブとして挙げられているのは、上司や組織の取り巻き、広告業など競争や消費をあおるいかさま師、人に仕事を振ることだけを仕事とするタスクマスター、システムの欠陥を手作業で補完するダクトテーパー、意味のない文書・手続の繰り返しをするペーパーシフターなどである。こうした仕事はエッセンシャルワークに比べ、高い評価と報酬を得ているが、内実は新自由主義的管理社会が生み出す不合理だとグレイバーは指摘する。
 この書は新自由主義的大学改革と官僚主義の中で生まれた、数々の無意味な仕事に忙殺されている大学教員に多大なる支持を受けている(大学教員の仕事ぶりについては、木村幹『国立大学教授というお仕事―とある部局長のホンネ』ちくま新書、2025年が名著である)。読者の中にもマイナ保険証の扱いでダクトテーパーになってしまったという人もおられるのではないかと思うし、地方自治体の中には業者に仕事を振るだけのタスクマスターがいるかもしれない。本を読むと、その滑稽さに思わず笑いが漏れるが、重要なのはより良い財やサービスを利用者に提供することが役割の組織が、マネジメントすることにだけ重きを置いている点に、ブルシット・ジョブ論が焦点を当てたことである。エッセンシャルワークが軽視されるのは、より良い財やサービスを提供すること自体、軽視されているからなのである。どんな医療・介護をするか、どんな保育をするかではなく、お上のガイドラインに則ったマネジメントをいかに完遂するかこそが最重要課題なのである。
 実際の財やサービスの提供が軽視される風潮は上記に挙げた仕事だけに限らない。近年、財やサービスをつくり提供する事業それ自体ではなく、株や不動産、事業・会社の売買によって業績を上げることを志向する企業が多くなっており、ここでも売買の手腕のほうが高く評価される。こうした現象は新自由主義改革により、会社や事業が商品のように売買できるようになった2000年代以降のものである。
 この中で、現場で事業の担い手になるのではなく、売買やマネジメントを志向する若い人たちが出てきてもおかしくはなかろう。メルカリでの転売ビジネスのようなものであっても、である。しかし問題は官民を問わず、事業を全うに行う力が失われていることである。この世界の惨状にアダム・スミスが墓場で怒っているのではないかと、個人的には心配しているところである。

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