最後の浮世絵師 月岡芳年の魅力 武田 信巳(西京)第3幅  PDF

血みどろ絵に隠された悪党が成せる
魔性美と英雄たちへの共感

 芳年と言えば「血みどろ残酷絵」を想い浮かべる浮世絵好きの方もおられるでしょう。まず、その代表作として慶応2(1866)年から3(1867)年に出版された兄弟子・芳幾とそれぞれ14図ずつ描いた分作の「英名二十八衆句」(号は一魅斎号)から選んでみる。題材は巷談(説)や歌舞伎等から採り入れており、特に芳年は木版摺りの紅色の上にさらに手書きにて一枚一枚、膠で艶を加え、血糊の迫真性を増して凄惨描写を極め、芳幾を凌駕したと言える。本紙掲載には相応しくないとは思ったが、「直助権兵衛」(図1)をあえて挙げておく。これは同名の希有の悪人が登場する鶴屋南北の「東海道四谷怪談」から取材し、俗に「皮剥ぎ」と呼ばれ、飛ぶ鳥を落とす勢い27歳の芳年の残酷嗜好がよく表れている作品でもあろう。直助(本名)が江戸深川の医師・中島隆碩家にて下男奉公していた際、薬種の横領を隆碩に暴かれたため、中島一家を斬殺しその後、権兵衛と変名し麹町の他店に住み込んでいたが、捕縛され磔刑に処せられた実話のようだ。
 芳年は単にsadisticな面を強調され過ぎる嫌いがあるが、騒乱の幕末から近代化が著しく進んだ激動の明治時代初期に頗る時流に敏感で近代的かつ反骨精神を有する言わばjournalisticな視点を持ち併せた絵師であったと小生は考えている。それは明治元(1868)年から2(1869)年に出版されたいわゆる見立絵(歴史上の故事を同時代の人々が分かりやすいように描いた絵)である「魁題百撰相」の全65図でもよく現れている。古今の英雄たちの名を借りて、官軍と彰義隊の壮絶な戦いを弟子・年景を連れ実際の上野の山を走り廻り描いたのが、一つの証左である。その中で「佐久間大学」(図2)は購入した残酷焼きで有名な徳島の地と併せて鮮烈な印象の図である。駿河、遠江、三河を治めた今川義元は大軍を率いて信長を討たんと尾州に乱入した。佐久間大学は信長の命を受け、丸根の砦を守るが苦戦の末、最期を抑える。敵の首を持つ大学はすでに力尽き、呆然として自己の行為すら自覚せず放心状態であると「霊峰散人」が筆記している。英傑が最後を迎えるのに相応しい上品な橄欖色の着物がBlutの飛び散ったオリーブカラーの手術着に見えてくるのは外科医の端くれの小生だけであろうか?

(図2)月岡芳年「魅題百選相」
佐久間大学(号は一魁斎)

(図1)月岡芳年「英名二十八衆句」 直助権兵衛(号は一魁斎)

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