最後の浮世絵師 月つき岡おか芳よし年としの魅力 武田 信巳(西京)第2幅  PDF

約200年前の武者・怪奇浮世絵
今でも十分バズるだろう

それは慶応元(1865)年、2(1866)年に出版された初期作品「和漢百物語わかんひゃくものがたり」と「美び勇ゆう水すい滸こ伝でん」であろう。では紙面制限の関係で小生も大好きな後者の中判錦絵の傑作だけを取り上げる。ちなみに定型的な浮世絵のサイズにおいて、最も作例の多い判型は大判(縦39p×横26・5p、大奉書の横二つ切)で、中判(縦19・5p×横26・5p、大判の横二つ切)、小判(縦19・5p×横13p、大判の4分の1)、大短冊判(縦39p×横18p、大奉書の縦三つ切)と続く。特に縦2枚続きのものを「掛物絵」(続絵・別称まな板絵縦約70p×横12〜13p)とも呼び、さらに幅が狭いものは掛軸の代わりとして縦長構図を活かし床の間に「花鳥画」を飾っていた。特に、男衆は「立姿美人図」や「湯上がり女人姿のあぶな絵」を日々楽しんでいただろうし、やはり細長い「柱絵」と称されるものは実際は壁や障子などの穴や汚れを隠すのに重宝していたのではないかと江戸時代の生活を想像してみたくなる。団扇に貼るための団扇うちわ絵え、おもちゃ絵と呼ばれる子ども向けの双六すごろく絵え、絵え解ときパズルの判はんじ絵、絵を切り抜いて組み立てて遊ぶ組合くみあげ絵え、着せ替えを楽しむ姉様あねさま絵えといった変形タイプもあり、浮世絵は江戸の生活と同じくバリエーション豊かであった。
では紹介する「美勇水滸伝」(魁斎かいさい・玉ぎょく櫻おう楼ろうの号を使用)は目録含め五十一図の揃そろい物もので、多くは講談から取られており、描画形式は伝統的な武者絵風が中心でそれに怪奇絵の要素が加わり、おそらく幕末当時の読本よみほん(文を読むことを主とした本で現在の小説)や草くさ双ぞう紙し(赤・青・黒本、黄表紙と称し挿絵入りで余白を本文平仮名書きで埋められた小冊子、現在のグラビア雑誌)ならびに芝居好きの庶民には好きでたまらない人物が揃っている。
龍虎が描かれている目録を上段左端に置き、五図を選択した(図)。その隣の中央に配した「黒くろ雲くも皇おう子じ」では源頼光を恨んだ恐ろし気な土つち蜘ぐ蛛もが黒雲皇子に妖術を背後から掛け報復しようとする絵の静寂な緊張感が際立っている。上段右端の「虎こ王おう丸まる児じ雷らい也や」では龕灯がんとうの明かりを当てて上方を向く義ぎ賊ぞく児雷也(尾形周馬弘行)はじめ、やや緊張気味の人物に反して背中に乗られている蝦蟇蛙の「オイ!いつ忍術を仕掛けるのか?」と言わんとばかりの表情が可愛カワユイ。また、下段左端から「勇ゆう婦ふ綱つな手で」では図のごとく大おお友とも若わか菜な姫ひめは白しら縫ぬい大だい尽じんと名乗り、美貌麗しながら強靭で天あま草くさ四し郎ろうとともに鎌首をもたげ、逞しく描かれた大おろ蛇ち丸まるの妖術を使って敵である菊地の忠臣鳥とり山やま豊ぶん後ご之の助すけの息子・秋あき作さくと戦い後に九州の海賊を平定する。下段中央の「金こん神じん長ちょう五ご郎ろう」では明治以降の図柄に大きな影響を与えた見事な背中の彫物もんもんを見せつつ、緑の金こん剛ごう神しん妖怪を投げ飛ばしたところひとたまりなくズッコケて降参しているようだ。下段右端の「高たか木ぎ午うま之の助すけ」では名な古ご屋や山さん三ざ(郎)、不ふ破わ伴ばん作さくとともに茂林しげ・もはやし家三勇士と言われ、古寺に赴いて肝試しする際、あざ笑う巨大な妖怪に少しも驚かず右手で膳に頬杖をつき、妖怪をにらみ返している姿が誠に頼もしい。本来の水滸伝はご存じのように中国の北宋末期に山東省の梁山泊りょうざんぱくに集まった108人の豪傑たちの物語(四大奇書の一つ)であるが、芳年はそれを国芳の「通俗水滸伝」を踏まえ日本の人物を題材にしていて、当時としては身近で師をも凌いでいる作品とも考えられる。現代で言うと「ゴールデンカムイ」のtasteに通じるものがあり、アニメ化するとウケるのではと思えてならない。

月岡芳年中判浮世絵傑作「美勇水滸伝」選択五図(号は魁斎、玉櫻)
上段左端:目録、中央:黒雲皇子、右端:虎王丸児雷也
下段左端:勇婦綱手、中央:金神長五郎、右端:高木午之助

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