明治から令和へ
船鉾町で患者を診る
医療法人水越医院 水越 文和 医師
祖父の思い 心願かなえるため
京都には歴代受け継がれてきた医療機関が多くある。医院に残されている記録や記憶を通して、当時の京都の町の暮らしや様子、医療状況を知るとともに、医院の基盤がどのようにつくられてきたかを紹介する。今回は京都市下京区の医療法人水越医院の水越文和医師に聞いた。
「水越医院のこの建物も古いのですが、実は奥にある建物の1階を今リフォームしているところです。もともとは祖父が建てた医院で当時の写真がこれです」と文和医師が写真を取り出した(写真1)。伊勢出身の祖父・重助が大正14(1925)年に伊勢から大工を呼び寄せ、鉄筋コンクリートの3階建の医院ビルを建設し(写真2)、翌年に完成させた。当時としては珍しい洋風の鉄筋コンクリート造の建物は「地震があっても絶対に倒れない」とリフォーム工事を請け負う職人は言う。
「でもこの建物は終戦に京都にやって来た進駐軍に接収され、米軍用の病院だった過去があるのです」。終戦の1945年、日本で進駐軍の占領が始まった。京都も例外ではなく、司令部が四条烏丸の丸紅ビル(現:cocon 烏丸ビル)に置かれた。接収地は市内を中心に128カ所。京都ホテル、京都宝塚劇場、五条警察署、中央市場内一部、二条城前などである。接収された建物は企業や国・府・市の所有するものだけでなく、個人の住宅も対象となった。個人住宅は主に米軍家族用住宅に利用された。接収された個人住宅は京都市内で149戸との記録が残っている。接収対象となった建物は当然所有者が拒むことはできず、米軍は自分たちが利用しやすいように改造して占領した。
水越医院は接収された後も、裏にある母屋の一部で診療を続けた。
「占領終了後に建物が戻ってくるのかと思いきや…。詳しいことは分からないのですが、米軍は接収した一部を競売のような形で売ってアメリカに帰って行ったようです。水越医院ビルも進駐軍が持ち込んだ機材とともに他の医師に渡り、別名の診療所になってしまいました。祖父はそのことを憂いながら生涯を終えることになったのです」
敷地内で米軍が行き交う中、診療を続けた
父・治、母・郁子は京都府立医科大学、京都府立女子医学専門学部出身でともに耳鼻科医師であった。治は卒業後も大学に残り、耳鼻咽喉科学教室の第三代教授となり、附属病院長、25代京都府立医科大学学長(昭和54年4月〜57年3月)、日本学術会議委員などを務めた。退官後も明治鍼灸大学、ノートルダム女子大学の学長を務めるなど、学術と教育に生涯を捧げた。
第二次世界大戦までの日本は女子学生を受け入れる国公立医育機関はほとんどなかった。京都府立医科大学では昭和19(1944)年に女子医学専門部を附設し、3年間女子学生を受け入れた。郁子はその第1期生である(第1期生は81人)。物がない時代で、紙は貴重だった。当時の講義について「主に口述でしたので一生懸命ノートに書き込みました。ノートに毎日沢山書くのでノートも自由に手に入りませんでした。書き残しの余白を集めたり、裏の白い用紙を集めて雑記帳にしました。…教科書以外に単行本など本屋になく、岩波文庫もなく、読むものは教科書以外に無く、通学時にドイツ語の辞書を読むしかありませんでした」と言葉を残している。
進駐軍が京都を占領中に、治と郁子は結婚した。その後、郁子は重助の医院を手伝うようになる。郁子は当時の様子について「家の表に米軍がいて怖かった」とよく言っていた。水越家の敷地内では米軍のジープが走り、使用人の女性は怖がって裏口の路地から出入りした。
医院ビルの棟上げから100年を前に
平成9(1997)年に文和医師が3代目として医院を継いだ。「水越医院を継ぎ、ずっとかなえたいことがありました。平成15(2003)年に祖父の医院ビルをやっと買い戻すことができたのです」。約60年ぶりに水越家に戻った建物は雨漏りも亀裂もない堅牢な建物で、解体せずに2・3階を自宅に改装。1階は手つかずのまま時が過ぎた。そして2024年春、1階に医院を移設する計画を立て、工事に取りかかっている。「できるだけ当時のレイアウトそのままに診療所を復活させようと考えています。祖父に喜んでもらえるかなと思って」「リフォームは今年中に完成します。近いうちに息子に医院を継いでほしいと思っています。それが私のこれからの人生でやり通したい大仕事なんです」
(敬称略)
補伝・外伝
祖父・重助は京都帝国大学耳鼻咽喉科初代教授の和辻春次に学び、明治44(1911)年に開業した。同じ頃、京都では7人の耳鼻科医が開業している。この開業医たちが年2回の集まりを持ったことが現在の京都府耳鼻咽喉科専門医会の発端となった。
進駐軍が占領した個人住宅の記録が京都府の行政文書に残されている。記録されている個人住宅は接収した建物の改築や修繕のために京都府が費用を負担したものに限る。水越医院は丸紅ビルに置かれた進駐軍本部の関連施設として米軍用の病院に利用されていたようだが記録は残っていない。行政文書に残されていない形態で接収された実態が当時の京都でどれだけあったかは不明だが、接収を知る人がいなくなれば歴史に埋もれていく事実となろう。
「工事が始まってから、いろいろ直さないといけないところが出てきました」と語る文和医師(工事中の医院ビル1階で)=2024年6月21日撮影
祖父・重助が診療していた当時の診察室(写真1)、大正14年の医院ビル工事(棟上げ)の様子、奥に見える母屋の2階から幼い父・治が抱かれてこちらを向いている(写真2)、『京都府立医科大学 大学昇格100周年記念誌』に寄せるための郁子の下書き(当時94歳)。令和の医学生に向け、「一生勉強です。いつまでも頑張って下さい」と綴る(写真3)
参考資料
『米軍基地下の京都1945年〜1958年』大内照雄、図書出版 文理閣(2017年)、『連合軍接収設営工事関係綴 D地区』(京都府立京都学・歴彩館所蔵 昭和22―62)、『連合軍接収設営工事関係綴 E地区』(京都府立京都学・歴彩館所蔵 昭和22―63)、『昭和22年3月 木村知事、山本知事事務引継演説書』(京都府立京都学・歴彩館所蔵 昭和22―32)、『京都府立医科大学 大学昇格100周年記念誌〜比叡は明けたり〜』京都府立医科大学学長・竹中洋/京都府立医科大学学友会会長・井端泰彦(2021年10月22日)