御土居の袖の謎 中 康匡(西陣)  PDF

 北野天満宮の西南に位置する場所で開業してから四半世紀が経過した。以前から地元の歴史に興味があり、散歩しながら昔の地域の姿を想像することがある。NHKの大河ドラマ「光る君へ」が放映されていることもあり、今年はなおさら関心を持つことになった。
 かつて豊臣秀吉が築いた御土居のライン上(北野天満宮の敷地内にある御土居に連続して)に当院がある。図に示した通り、南に辿って行くとなぜか弘誓寺のところで西の方向に直角に向きを変え、北野中学校の敷地内に遺る御土居へと続く。御土居のラインは、そこから南へと直線的に続き、円町の交差点から見ると南西に位置する朱八会館のところで東に折れて再び紙屋川の東側まで戻る。
 この「御土居の袖」がなぜ造られたのか? 『御土居堀ものがたり』によると四つの説があるという。詳細は割愛するが、この付近では下立売通(現在は妙心寺道)に面した辺りだけが街区を形成していたとする説を支持したい。ではなぜこの辺りだけが街区を形成していたのか?
 小生は歴史学者ではなく単に地域の歴史に興味を持つ一私人に過ぎないが、御土居の袖の北側部分は西京神人の居住地であったことが深く関与しているものと推測する。惜しくも2018年に解体された川井家住宅(室町時代から存続)は紙屋川の西に隣接していた。信長と秀吉の時代を200年程遡る室町時代の特に足利義満の治世において、西京神人(川井家はその末裔)は酒作りの酒麹役という税が免除される独占的な特権が与えられていた。すなわち、麹売買を通じて得られた利益の一部を神役として北野天満宮に納め、西京に居住することを室町幕府によって確定されていた。その当時に経済活動が隆盛しかつ持続して街区を形成していたのは至極当然であると考える。さらに藤原摂関家に近い立場となった豊臣氏としては、北野天満宮の膝下領である地域は御霊信仰の影響を受けて洛中に組み入れたものと推定できる。事実、御土居堀に相当する土地の対価(西院村二九石四斗四升)を西京神人に遣わすという古文書も現存している。
 紙面の都合上、根拠を十分には言及できないが、その街区が形成されていた地域が中保町という地名として遺されていることが一つの証拠である。この「保」とは条坊制や国衙領の単位として現われるものとは異なり、神社や領民を神人として組織し、神人にさまざまな役を賦課するために設定した領域単位を指している。「中保」とは西京神人の居住地であることを明確に示す名称である。機会があれば、陰陽道と御霊信仰の見地から謎解きに迫りたいと考えている。

現在の地図上での御土居の袖(北野中学校、弘誓寺、川井家住宅跡も中保町内にある)

御土居の西側の平安京の近衛大路の北側から大炊御門大路の南側だけが凸型に張出しているため御土居の袖と呼ばれている。
(『地理から見た信長・秀吉・家康の戦略』[足利健亮・著、株式会社吉川弘文館発行、2016年]99頁第5図「お土居」より転載、赤枠は筆者が追記)

北野天満宮敷地図(御土居と北野天満宮の両者の形状に類似点があるのは陰陽道の影響によると考えられる)

参考資料
『御土居堀ものがたり』(中村武生著、京都新聞出版センター、2008年)、『日本中世の民衆世界―西京神人の千年』(三枝暁子著、岩波書店、2022年)

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