福祉国歌構想研究会 対抗軸を探る5  PDF

名城大学経済学部准教授 蓑輪 明子
福祉国家構想再考 ― ケアの思想から
普通の人が身近で担うケアに目を向ける

 近年、ケア論がさかんになっている。ケア論というと、これまでは看護や介護といった、専門職によるケアを前提に議論されることが多かったが、最近のケア論は〈ケア〉の含意を少しずらし、主に子育てを念頭において、脆弱な他者への配慮や世話を〈ケア〉と定義し、より多くの身近な行為をケアの典型としている。その上で、ケア論の中には、〈ケア〉とその関係性を大切にする社会・政治への転換を提言しているものがある。世界的に見ると、フェミニズムとジェンダーの立場からこうした変革の途を探る多くの試みがあり、一般の人が読みやすいものとして、つい最近出版された岡野八代の『ケアの思想』(岩波新書)のほか、ヨーロッパフェミニストを中心に記された『ケア宣言』(大月書店)、長田華子らの研究者が出した『フェミニスト経済学』(有斐閣)なども挙げたいところだ。
 さて、それらで示されているケアの思想を私なりにまとめると、以下のようになる。全ての人は本来、日常的にケアを必要としたり行ったりする存在であり、人はみな〈ケア〉の絡み合いの中で生きている。人は全て母から生まれ、子どもとして他者のケアを受けて育った経験を持つだけでなく、大人になっても職場での仕事、日々の食事から睡眠や会話などを含め、他者の配慮や世話をすること/されることなしに生きてはいない。またケアは親など主にそれを担う人だけで完結するものでなく、ケアする人をフォローしケアする必要がある、重層的で共同的な行為でもある。こうした網の目のようなケアの世界があってはじめて、社会や経済、政治は成り立つ。
 しかし、哲学や経済学の言説を紐解くと、驚くほどケアの世界は語られていない。詳細は先ほど挙げたような著作をたどってほしいが、哲学者や経済学者が社会を語る時、ケアの世界はあたかも存在しないもの、価値の低い、おまけのようなものの扱いを受けてきた。またケアは一筋縄ではいかない、ままならない営みであるが、ケアの世界が破綻しないよう、矛盾を一身に引き受けてきたのは多くの女性たちである。しかし、新自由主義に批判的な哲学や経済学の学者が公正な社会を論じる時にすら、そのことを正面から捉えておらず、ままならないケアの世界を女性たちに強制する時、しばしば生じてきたケアの担い手に対する差別や搾取・収奪、暴力すら不問にされてきた。
 ケアの世界を基軸に据えると、既存の社会像には重大な欠落があり、ケアを中心に据えた社会観と改革構想が必要だ―これがケアの思想が言わんとするところである。専門職によるケアでなく普通の人が身近なところで担う何気ないケアを正面に据えたのも、普通の人たち、特に普通の女性たちが日常的に担うケアが、表向きは最も賞賛されながら、最も無視・軽視され、最も暴力にさらされ、最も社会的、政治的、経済的に利用されやすいからであろう。そのことを描いてこそ、ケアの矛盾した構造がよりクリアに可視化される。ケアの思想ではケアが介護や医療・福祉、子育てだけでなく、全ての領域の行為に含まれていることも強調されている。社会や経済・政治をケアの網の目の中に埋め戻し、ケアする人の犠牲なしで、相互的な配慮と世話、特に脆弱な他者へのそれに満ちた世界を目指したい―これがケアの思想の要点である。
 こうした変革には社会的制度的条件が不可欠であることは言うまでもない。では、福祉国家構想との接点はあるのか。例えば福祉国家と基本法研究会ほか編の『新たな福祉国家を展望する』(2011年、旬報社)は、個人に対する教育や社会サービスを含む最低生活保障とその供給体制を権利憲章として提示したものであった。ケアの思想はそうした個人の生存権を前提としながらも、さらに踏み込んで社会の中の、人と人との関係のあり方、その質を問う思想である。その意味でのケアを実現するための制度・政策とはいかなるものか。ケアの思想の提起に応える思索が今、あらためて求められていると思う。

みのわ・あきこ 名城大学経済学部准教授。1975年、富山県生まれ。著作として、中西新太郎・蓑輪明子編著『キーワードで読む現代日本社会』(旬報社、2012年)、松本伊智朗編著『子どもの貧困を問いなおす―家族・ジェンダーの視点から』(法律文化社、2017年)、後藤道夫・中澤秀一ほか編著『最低賃金1500円でつくる仕事と暮らし』(大月書店、2018年)など。

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