元大阪高等裁判所部総括判事・弁護士 大島眞一
最高裁判決から見る予防接種における過失の判定基準
1 はじめに
予防接種とは予防接種法2条1項で、「疾病に対して免疫の効果を得させるため、疾病の予防に有効であることが確認されているワクチンを、人体に注射し、または接種すること」と規定されています。
予防接種は被接種者個人のためではなく、社会に疾病を蔓延させないため、つまり社会全体のために実施されるものですから、予防接種を受けたことにより疾病などが生じた場合、健康被害救済制度に基づき、医療費の自己負担分の他、医療手当などが定額給付されます(同法15〜17条)。
2 国家賠償法
一方で、被接種者の中にはその額を超える給付を求める裁判を起こすケースもあります。その根拠となるのが国家賠償法です。
従来、予防接種を受けることは義務とされていましたが、平成6年改正により、強制接種ではなく任意接種となりました(同法8条)。ただ任意とはいっても、予防接種の実施は前記目的などに鑑み、国家賠償法1条1項で定められている「公権力の行使」に当たると解されています。したがって、被接種者が裁判を起こす場合、民法上の不法行為ではなく、国家賠償請求によって救済を求めることになります。
国家賠償法1条1項では、公務員個人は損害賠償責任を負いません。ここでいう「公務員」には「私人」であっても、国から委託を受けて国の事務を引き受けたと考えられる者も含みます。つまり、予防接種において接種を担当した医師個人は損害賠償責任を負わず、開業医や民間施設に勤務する医師が国から委託を受けて接種を行った場合も同様ということです。
医師が損害賠償責任を負わない理由としては、①条文上、「国または公共団体」が責任を負うと定められていること②被害者として国または公共団体から確実に賠償を得られる以上、個人の責任を追及する必要はないこと③個人が責任を追及される恐れがあると、公務員を萎縮させ公務の適正な執行まで抑制される恐れがあること―などが挙げられています。
3 裁判例
予防接種に関する裁判を紹介します。事案はかなり古く、最高裁判所昭和51年9月30日判決(民集30巻8号816頁)です。
(1)事案の概要
A(1歳)は、昭和42年11月4日、Y(東京都)の保健所において、B医師からインフルエンザ予防接種を受けたところ、翌日午前7時頃死亡しました。Aは1週間位前から間質性肺炎および腸炎に罹患していました。
Aの両親XらがYに対し損害賠償を求めました。争点はB医師が問診義務に違反したかという点です。
Xらは「接種前に、問診・視診・体温測定・聴打診を行っていれば、Aの疾病による肺の呼吸音の異常等を確認でき、予防接種を中止し得た」と主張しました。これに対し、Yは「B医師は、Aの顔・腕を見て、腕に触れ、Aの保護者にAの年齢や身体の具合を質問したから、問診義務は尽くされている」と主張しました。
1、2審はいずれもXらが敗訴しましたが、Xらが上告しました。
(2)最高裁の判断
最高裁判所は次の通り判示し、高裁判決を破棄し、差し戻しました。
まず、問診義務に関して「予防接種を実施する医師としては、問診するにあたって、接種対象者またはその保護者に対し、単に概括的、抽象的に接種対象者の接種直前における身体の健康状態についてその異常の有無を質問するだけでは足りず、禁忌者を識別するに足りるだけの具体的質問、すなわち予防接種実施規則4条所定の症状、疾病、体質的素因の有無およびそれらを外部的に徴表する諸事由の有無を具体的に、かつ被質問者に的確な応答を可能ならしめるような適切な質問をする義務がある」としました。
そして問診の方法について、「もとより集団接種の場合には時間的、経済的制約があるから、その質問の方法は、全て医師の口頭質問による必要はなく、質問事項を書面に記載し、接種対象者またはその保護者に事前にその回答を記入せしめておく方法(いわゆる問診票)…等を併用し、医師の口頭による質問を事前に補助せしめる手段を講じることは許容されるが、医師の口頭による問診の適否は、質問内容、表現、用語および併用された補助方法の手段の種類、内容、表現、用語を総合考慮して判断すべきである」としました。
その上で高裁判決について、「原判決は、予防接種の担当医師は、接種対象者またはその保護者に対し、接種対象者の接種直前における身体の異常の有無を質問すれば問診義務が尽くされたとの前提のもとに、B医師は、Aに対して本件インフルエンザ予防接種を実施するにあたり問診義務を尽くしたとし…請求を棄却すべきものとしているが、本件インフルエンザ予防接種を担当実施する医師の注意義務についての解釈を誤ったものである」と結論付けています。
(差戻審については調査しましたが、分かりませんでした。)
(3) 解説
昭和42年当時は、まだ問診票を使うのは一般化していませんでした。予防接種の問診票が昭和45年11月以降に使用されるようになったことを踏まえ、最高裁はそこに記載されている程度の質問は、本件接種当時においても何らかの形で要求されていたという判断を示しました。この最高裁判決については、医師側の反発を招き、予防接種の拒否など一時社会問題化したようです。
本件を契機として、予防接種に起因する事故について、医師の過失の有無を問わず、一定額を給付する給付制度(予防接種法15条以下)が設けられるなど、改善が進みました。現在では問診票が使われているため、本件のように問診票に基づく予診が実施されず裁判に至るケースは想定しにくい状況です。ただ、本判決で述べられている最高裁の考え方には次に述べる通り、留意が必要です。
4 まとめ
本判決は、問診票を使用することなどは、さほど手間をかけることなく可能であることから医師に義務を課したものと考えられます。以前の連載で、麻酔時の血圧測定の頻度が問われた最高裁判決を紹介しました(本紙3165号参照)が、本判決はこれと似ている部分があるように思います。
前記最高裁判決は、当時、麻酔薬であるペルカミンSの添付文書に「2分間隔で血圧を測定する」旨が記載されていたにもかかわらず、当該医療機関が医療慣行に則って5分間隔で実施していたところ、最高裁は「注意義務を尽くしたことにはならない」として高裁判決を破棄、差し戻したというものです。
今回紹介した予防接種の判決も、「人命に関わるような局面で、大きな手間をかけることなく実施可能なことであれば、より慎重に対応するのが相当」という考えが根底にあるように思われます。