〈奥沢家〉―現存するものから辿る 江戸から続く医家 明治に眼科開設  PDF

正紀医師の曾祖父・禮次郎が河原町正面で開業した奥澤眼科診療所は明治43〈1910〉年に建てられた。診療所は祖父・正の代で閉院したが、当時の建物は私設の「眼科・外科歴史博物館※1」(平成13〈2001〉年に康正医師が設立)となり、今は誰もが見学できる。
収集家の康正医師
江戸期の医療道具も
 中に入ると、受付台が残されており、当時の雰囲気を感じられる。博物館には奥沢眼科と竹岡外科※2に保存されていた江戸時代からの医療道具に加え、康正医師が譲り受けたり、購入した医療機器が展示されている。大学病院でいらなくなった医療道具があると聞くと、康正医師がリヤカーで収集に行った。古いものであればあるほど、“収集家”の血が騒いだようだ。集めたその数、なんと数万点。目録が残されておらず、何がどれだけあるのか不明のため、京都の学生さんたちと目録作成が始められている。義眼、江戸時代の白内障手術道具の「開瞼器」、検眼レンズ…、明治30年代の視力表も展示されている。数と種類に圧倒されるが、中でも貴重なものは紙製の「目の解剖模型(明治20年代)」、同時に9人が見ることができる「眼底鏡(1929年ドイツ製)」である。
 2013年にNHK大河ドラマ「八重の桜」が放送された頃、NHKから、山本八重の兄・山本覚馬が長崎養生所のオランダの眼科医ボードイン(文久2〈1862〉年に長崎養生所着任)の診断を受けた時の眼科医療器具がどのようなものだったか、当時の実物があれば貸してほしいと言われ、康正医師が博物館にある眼科検査用具を貸し出したそうだ。眼科学の歴史を知るには資料の宝庫、一見する価値“大”である。
禮次郎、大学を退職
河原町正面で開業
 さて、奥沢家ではどのように眼科が受け継がれてきたのだろうか。『平安人物志(文政13〈1830〉年版)』(国際日本文化研究センター所蔵)には、「医家…奥澤若狭介」の名が記されている。奥沢家にまつわる最古の書である。
 残されている記録を手掛かりにしようと、正が残した家系図を開いた。表紙をめくると、「此記帳ハ昭和廿年四月五日空爆ニヨリテ奥沢家系図焼失スルヤモ計リ知レザル ヲ顧慮シテ祖先傳来ノ系図一巻ヲ複寫セルモノナリ」と正が麗筆をふるう。さらに読み進めると、禮次郎の名の横に、「京都府立醫学専門学校卒業母校教諭(眼科部長)ヲ テ民間ニ眼科医院ヲ開設シ令名アリ…」と記されている。大学を退職したのは明治35〈1902〉年5月であった(京都府立医科大学眼科学教室ホームページ)。同ホームページには禮次郎の研究として、「著書に『ランドルト氏視力表』(明治35〈1902〉年)、井上喜久治との共著で『視力表』がある。日本で早くに報告された研究業績として『眼球突出について』(明治29〈1896〉年)がある」と紹介されている。
 禮次郎はどのような人だったのだろうか。実は京都府醫學校在学中の成績表が現存する。内科各論、外科各論、眼科學、産科學、婦人科學は「甲」、皮膚病及微毒學、診断學は「乙」で全成績「甲」と優秀だった。
明治生まれの正
診療と医学に励む
 正の名の横には「京都府立医科大学講師。日本赤十字社京都支部療院眼科部長ヲ テ父ノ業ヲ継グ」とある。禮次郎が昭和17〈1942〉年に亡くなり、長男の正が診療所を継いだ。当時、看護婦2人が住み込みをしていた。
 正は一日の診療が終わると、送られてくる学術誌には必ず目を通した。「医学は日進月歩。自分が遅れては、患者さんに失礼だから」と。明治生まれということもあり、礼儀作法はきっちりしていた。市電に乗る時はいつも、つり革をハンカチで拭って持つ、きれい好きだったエピソードも残る。心根は優しく、穏やかな人だった。
 現在、亀岡市と向日市の地で「奥沢眼科」が受け継がれている。(敬称略)

 ※1 眼科・外科歴史博物館(京都市下京区川端通正面橋西入)見学は要予約〈水・土曜日の午後〉
 ※2 正の妻方が竹岡家

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