京の眼科 京都を知ろう 医史編 機器、術式の変遷とともに河原町正面から亀岡、向日へ  PDF

医療法人正志会おくざわ眼科医院 奥沢 正紀(まさのり)医師

 京都には歴代受け継がれてきた医療機関が多くある。医院にはその地域で、それぞれ歩んできた物語があって今がある。医院に残されている記録や記憶を通して、当時の京都の町の暮らしや様子、医療状況を知るとともに、医院の歴史的な基盤がどのようにつくられてきたかを紹介する。今回、亀岡市の医療法人正志会おくざわ眼科医院の奥沢正紀医師に聞いた。

 奥沢眼科医院はいつ頃から始まったのでしょうか。
 ―曾祖父・禮次郎(れいじろう)が京都府立医科大学の教授をしていました。大学を退職後、河原町正面木屋町で奥澤眼科診療所を開業しました。禮次郎が昭和17〈1942〉年に亡くなった後に、祖父・正(ただし)が診療所を継いだと聞いています。
 父・康正(やすまさ)はこの河原町正面で生まれています。父も眼科医になり、昭和47〈1972〉年に西京区の桂と本町七条の2カ所に眼科を開業しました。桂には、亀岡から通って来られる患者さんがおられ、亀岡には眼科がなかったので、亀岡と醍醐にも奥沢眼科医院を開きました。平成6〈1994〉年に祖父が亡くなり管理者が必要となったため、私が亀岡の奥沢眼科医院を継ぎました。平成12〈2000〉年には、向日市にあった眼科を弟の淳治が第三者承継をして、奥沢眼科医院として診療しています。

 亀岡で医院を継がれた当時のことを詳しく教えていただけますか。
 ―当時の亀岡の父の医院は、元が喫茶店だった木造の平屋の建物をそのまま診療所として開業しました。両隣は歯科医院と一時耳鼻科医院後に学習塾となり、雑然として分かり難いので目印に、当時の事務長が列車の正面部分を二つ譲り受け、医院の玄関の両側に配置しました。
 10年程前にこの地域の区画整理があり、医院を一旦JR並河駅近くのマンションのテナントに移し、新しく医院を建てました。建物自体は当時の面影はすっかりなくなりました。昔と比べたら、今の医院はもともと農業用の用水路で、そこを埋め立てて建てていますし、周りも新しい道ができ、人口も当時と比べて増えてきました。

 眼科の歴史的な変化について教えて下さい。
 ―今の診療内容は祖父や父の頃と全然違うと思います。祖父も白内障の手術をしていましたが、当時は縫合針がなかったので、術後1カ月は絶対安静です。特にこの20年程で医療機器の進化と術式が大きく変わりました。白内障の手術は切らずに行うことが可能になり、日帰りで対応できるようになりました。最近はゲーム機やパソコン、スマホの普及で子どもの近視が顕著で、それに伴い緑内障も増加しています。一方で、糖尿病の合併症はすごく減ってきました。
 子どもの時に通院されていた患者さんが親になり、お子さんを連れて来られることもあります。家族代々診させてもらえることもあって、地域の方に通ってもらえていることはありがたいです。

ページの先頭へ