多くの犠牲者を出した関東大震災から2023年の9月1日で100年が経過した。その震災では相模湾の北西部の神奈川県内も大きな被害が発生したが、特に東京都内はお昼時の炊事の火が燃え移って大火事になり、多くの犠牲者を出した。
この関東大震災は近代の日本での震災で最大の犠牲者を出した。約10万5千人が亡くなられた。この内9割近くの方が火事で亡くなられた。当時は震度の最大が6までしかなかったので、震度6とされた。今の条件だと、震度7であったとされている。震源地は相模湾の北西部で、5分間に3回も揺れが起こった。静岡県熱海市では12mの高さの津波が発生して、土砂崩れや地滑りも起こり、神奈川県小田原市では、駅に止まっていた列車がホームごと流される惨事も発生した。
地震の発生は11時58分、まさにお昼時であり、多くの家では火を使用していた。当時は、「かまど」や「七輪」を使用していたので、それらの上に木材や障子が倒れ込み、火が燃え広がった。当時の気象も関係しており、台風が日本海に停滞し、その台風に向かって吹いていたため、火事が拡大していった。東京都墨田区では陸軍の軍服を作っていた工場跡にたくさんの人が避難していたが、火事が強風であおられ、火災旋風というまるで炎の竜巻のような現象が起きて、この場所だけで3万8千人が亡くなった。この関東大地震で人々は、「グラッと来たら大地震になる」という噂が広まり、以降は「グラッと来たら火の用心」と思うようになったという。
2007年に起きた新潟県中越沖地震で火を消そうとして、転んだり、やけどをする人が相次いだので、その後は標語が変わった。すなわち、「地震だ、身を守れ」という風に変化した。最近では、ガスストーブも電気ストーブも揺れを感じると自動的に止まるようになっている。そこで地震が来たら自分の身を守る行動をとり、地震が治まってから火の始末をしようということになった。
関東大震災の後、多くの変化があり、たくさんの瓦礫を捨てるために横浜市の海岸を埋めたのが山下公園になったのである。さらに、東京の街路樹としてイチョウが植えられた。イチョウは葉が厚く水分を多く含み、燃えにくい性質をもっている。関東大震災の時には多くの街路樹が焼失したが、燃え残ったイチョウは延焼を防いだので、その後も多く植えられるようになった。このイチョウは、今や有名な「東京の木」になっている。
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