井上家の歴史  PDF

 井上家の先祖は、清水坂を下り東大路通の北、安井寄りの松原で、代々灸治療を家業としていた。「中道(または広道)の井上」の「安井の一つ灸」は、花柳病(梅毒などの性感染症)によく効くと評判だった。
 洋医初代の幸一がこの地で明治11(1878)年に開業する。その後明治44(1911)年、東大路が拡張されることになり、山科西野山に転居した。幸一は西野山で最期まで診療を行った。この時代は診療日や診療時間の掲示はない。患者の来院があれば診察し、請われれば往診というスタイルだった。
 その頃の日本にはまだ保健所が存在せず、地域医療は警察が仕切っていた。幸一は開業医の傍ら京都府警察医を兼任していた。
 当時の山科、醍醐、宇治、伏見東部(深草)は宇治郡と呼ばれ、この地域の行政の中心地は郡役所のある醍醐村だった。しかし、醍醐村は無医村だったため、息子の正夫を村医にと懇願され、大正12(1923)年に今の醍醐の地で開業した。昭和22(1947)年まで醍醐村での開業は他になく、正夫は村医、警察医、学校医、その他多くの嘱託医を兼ね、地域医療に尽力した。大正末期から昭和初期の醍醐村の人口は約3500人。当時の往診範囲は山科全域、醍醐街道沿いの石田、日野、小栗栖、宇治は笠取までと広く、主に人力車が使われ、山を越える時は山駕籠も使用された。
 三代目謙一も、醍醐地域の複数施設の医療責任者を兼任していた。昭和30年代は自宅での看取りが多かった。日本人の約90%以上は自宅で亡くなっていた時代だ。看取りの対応に加え、カルテ整理とレセプト作成などの保険請求業務は手作業のため、煩雑を極め、徹夜仕事も珍しくなかった。
 今、雅史医師が井上医院を継ぐ。井上医院が醍醐の地に移り今年で100年を迎えた。
(敬称略)

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