伏見 京都を知ろう 医史編  PDF

 京都には歴代受け継がれてきた医療機関が多くある。医院にはその地域で、それぞれ歩んできた物語があって今がある。医院に残されている記録や記憶を通して、当時の京都の町の暮らしや様子、医療状況を知るとともに、医院の歴史的な基盤がどのようにつくられてきたかを紹介する。今回、京都市伏見区の医療法人井上医院と藤田医院に聞いた。

医療法人井上医院 井上雅史医師
鍾馗さんで病魔退散
トラウベで思う着衣検診

 伏見区の醍醐寺の側にある医療法人井上医院。院長の井上雅まさ史ふみ医師に、井上医院で大事に残されてきたものについて紹介していただいた。

 古いものを二つ、準備した。医薬系信仰対象は鍾馗さんか神農さんが昔は多い。狩野祐清英信(1717~1763年)による「鍾馗」の掛け軸(絹本墨画淡彩)を示す。獅子に乗る鍾馗は江戸時代中後期の狩野派の様式とのこと。新型コロナ感染の流行時には、病魔退散を祈念して、ついつい床の間に掛けてしまった。
 京町屋の屋根に鍾馗さんの像を時々見かける。向かいの鬼瓦が追い払った邪気を、鬼より強い鍾馗さんが打ち返すのだそうだ。災いの種のラリーは避けるべきだ。屋根の上はバイオリン弾きが穏当である。
 鍾馗さんは衣類の防虫剤「樟脳」の商標で、昭和中期の世代は樟脳の匂いを憶えている。セルロイドなどで作った小舟に、一かけの樟脳を付けて遊んだものだ。「立て直し」や「起爆剤」の意味で使われる「カンフル剤」(独:Kampfer英:camphor)はまさに樟脳製剤のことで、昔は蘇生目的の注射薬(手塚治虫著『ブラック・ジャック』で見たことあり)であり、現在も外用薬として保険収載されている。
 もう一つは曾祖父のトラウベ型聴診器。水牛の角で作られている。聴診器の原型(筒型)を発明したのはルネ・ラエンネック(Rene Laennec 1781~1826年)で、胸・腹部接触面を大きく広げて、集音効果を高めたのがトラウベ(Ludwig Traube 1818~1876年)だそうだ。
 今年は学校検診の聴診(視診は除く)に関する上着・下着着脱問題に直面した。着と脱で疾患検出の感度と特異度を調べて判断を下すのがEBM(Evidence-Based Medicine)ではないかと思う。ついでながら軟弱な私は、大人数の聴診を続けると耳孔が結構痛い。トラウベ型聴診器(現在でもAmazonで購入可!)を使えば、耳孔の負担は少ないが、多分首を痛めることになるのだろう。

藤田医院 藤田克寿医師 処士を志し伏見の地で 龍馬…、種痘医、元老

 伏見区周防町にある藤田医院。院長の藤田克かつ寿とし医師に、長年続く医院について、先祖に関する記録をもとに語っていただいた。(敬称略)

藤田医院のはじまり、儒医丹岳<たんがく>
1784~1841年

 天明4(1784)年徳島に生まれ、医家藤田義景の養嗣子となり医術を学ぶ。丹岳について、『大日本人名辞書』(巻三)では「人となり簡黙沈静にして常に読書を以て楽みとなし、家の貧なるを意とせず家に在りて悠閑嘗て慍色なし、人に接して寛冲事を処するに崖異を好まず、誠に君子の風あり」と評している。儒者修行と医者修行で二度、京坂へ出かけた後、大坂に移り「漢蘭折衷医」の看板を掲げて医業を営むも、養父が病で倒れたため徳島に戻った。
 文政10(1827)年頃、伏見奉行の高富侯(美濃国高富藩主本庄伊勢守通貫)が医師であり漢詩文学の知識の深い丹岳の存在を知り儒官に招請する。しかし、丹岳に宮仕えする意思はなく、客分待遇の師として奉行所で典籍の講義を行うこととなる。こうして伏見に移り住むこととなった。天保4(1833)年、高富侯は伏見奉行から奏者番に栄転し江戸に下ることが決まった。丹岳はこの機に官を辞し、そのまま伏見の人となった。
 克寿医師「丹岳は頼らい山さん陽ようと並び称されたが、処士を志して歴史に名を残さなかった人ということになっています」

坂本龍馬の治療を施したとされる升齊<しょうさい>
1814~1870年

 父、丹岳に似て和漢の学問に明るく、医術に長じていたといわれる。幕末の慶応2(1866)年の寺田屋騒動で傷ついた坂本龍馬の応急処置と治療を施したのが升齊だったと言い伝えがある。診療の謝礼として鍔と小柄が贈られ、鍔は後日、寺田屋の主人から、たっての懇請があり割愛したという。この鍔は京都府に寄付され京都文化博物館が所蔵している。
 克寿医師「升齊の孫の藤田篤(呉竹)が祖母から聞いた話として、呉竹手記『垂髫すいちょう記』にこうした記述がありますが、この史実は本当かな? と思っています…」

種痘施術免許42人の中の一人 震齊<しんさい>
1832~1885年

 現在の藤田医院のある周防町で開業。明治2(1869)年、京都府でも天然痘が流行した。伏見においてもいち早く伏ふし水み種痘所が設けられた。京都府は明治7(1874)年5月、全国に先駆けて種痘法規則を布告し、種痘證符を制定、戸籍簿にその済否を記載する措置がとられた。明治8(1875)年、京都府が初めて種痘施術免許を42人に授与した内の一人が震齊である。ちなみに明治8年度の京都府の医師数は790人(内務省衛生年報『医師員数表』)。
 克寿医師「震齊は実は升齋の弟(宇田健齋)が養子に入った先の宇田家の実子でしたが、宇田家がそのまま健齋を宇田家の跡継ぎとしたので、升齋がこの実子をもらい受けて藤田震齊として育て上げたそうです。震齊は周防町藤田家の祖ですが、種痘の技術はどこで学んだのでしょう」

紀伊郡医師会での存在感 脩哉<しゅうさい>
1862~1941年

 「医界の名門であり、また当時の紀伊郡医師会の元老的存在であった(『伏見医史』伏見医師会、昭和54年3月31日)」。当時の伏見は京都府紀伊郡伏見町と呼ばれ、伏見医師会も紀伊郡医師会と言った。『垂髫記』には、脩哉が明治32(1899)年頃、北里柴三郎が主宰する伝染病研究所に4カ月程研究に行ったと記されている。当時、天然痘やコレラ(京都府でのコレラ発生は明治10年。明治19年、28年には大流行)、ペストなどの伝染病が流行っていた頃で、明治32年には伝染病研究所管制が公布された。
 克寿医師「明治天皇陵が造られた時に紀伊郡医師会長でした。感染症の発生には気を遣っていたようです。戦前にコッホが京都に来た時には歓迎の懇親会に出席した記録があります。藤田医院としては、この頃が一番羽振りの良い時代だったと思います」

実直に生きた脩吉<しゅうきち>
1891~1952年

 克寿医師「脩吉には男の子が3人いましたが、誰も跡を継がなかったので、私の母である長女の厚子と父が結婚して藤田家に入りました。『伏見医師会3大養子』と呼ばれていたそうです。インターンが終わってすぐに医院を継ぎ、まだまだ未熟でしたが、病気で弱っていた脩吉に代わって当時の伏見医師会の先生方に育ててもらった、と言っていました。兵隊にとられる年齢だったところを阪大附属医専に入って生き延びることになり、その分よく働く人でした」
 「私は電話が嫌いなんです。子どもの頃、夜中に患者さんから何回も電話がかかってきて、父が寝る間もなく往診に行っていたことを見ていたからでしょう」

地域の先生方に見守られ、藤田医院を継いだ克也<かつや>
1925~2016年

 克寿医師「医師であった兄2人が若くして亡くなったので、三男の脩吉が後を継ぎました。脩哉は女性関係も派手な人のようでしたが、祖父は地味な人だったと母親から聞いています。結核で亡くなりましたが、当時、乳児の私はその周りをうろうろしていたそうで、父がとても心配したそうです」

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