子どもは意外と大人社会のことに敏感です。そこで留意しなければならないのは、私たち小児科医は子どもが生後家族以外で最初に出会う大人なのだということです。私たちが子どもたちの「かかりつけ」であるということは、すなわち子どもに信頼され愛されて彼らが未来社会に希望を持つきっかけであり続けるという決意にほかなりません。一方、かかりつけ医の定義は厚労省のホームページで見ることができます。一見口当たりは良いのですが、つまるところ国家が医療従事者を個人として管理し、医療従事者同士を競合させたい。国家としてはそれによって、本当にそう信じているかどうかは別にして医療の質を向上させたいという制度設計です。
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「最新の医療情報を熟知」「地域医療・保健福祉を担う総合的な能力のある」というのはなかなか実際には高いハードルではありますが。その衣の下には個別の人や組織は孤立した利己的な存在であるという考えを起点とした「コモンズの悲劇」(G・ハーディン)に近い認識のもとに、各々の医療施設を個別の存在として管理する(もちろんその方が国家としては医療をひいては国民を管理しやすい)というシステムが措定されてい(ると思い)ます。その結果医師会などの医療従事者の協同組合的な組織(そういう形でちゃんと機能しているかどうかは議論の余地はありますが)は壊滅的な状況となる可能性があります。そこをうまく利用して大きな利益を得る施設とそこに乗れず十分な収入が得られない施設という形で格差がはっきりしていくのではないでしょうか。
つまり社会的共通資本の分野にまで市場原理を持ち込んでしまうと、所得分配の不平等が拡大するのです。では社会的共通資本とは何か。これは宇沢弘文氏が近代経済学の再検討をする中で提唱した概念で、医療については私の恩師・鴨下重彦先生と宇沢氏との共編著『社会的共通資本としての医療』(2010年)でも読むことができます。
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少し長いのですが「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたりまた利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。その各部門は職業的専門家によって専門的知識に基づき、職業的規範に従って管理維持されなければならない(宇沢氏:2000年)」と要約されます。
これは大きく①自然環境②社会的インフラストラクチャー③制度資本の三つに分類され、具体的には電力、水道、教育そして医療ももちろんこの中に含まれます。最近ではこれがポスト資本主義に関わる思想として、いろいろな分野で注目され、議論されるようになってきました。このことはとりもなおさず今後、社会をどうしていけば良いのかというこの時代共通の危機意識の現れでもあるのでしょう。
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キーワードは「コモン」と「利他」であり、また外に向かって開かれた「自主」「共有―共同」といったことが議論の対象となるのでしょう。医療が飲み水や教育と同様、社会的共通資本である以上、それは市場経済原理ではなく自律的なコミュニティの中での社会的基準によって管理運営されるべきなのです。私たちは今こういった社会的共通資本を国家官僚機構やそれに同調する企業が、実質的に支配するという構図(オンライン診療にはその危うさが垣間見られます)とうまく折り合いをつけて付き合っていかねばならないのかもしれません。
また医療DXの目標は「AIを主要な手段として医療が効率化され利益を増大させる、言い換えれば市場経済の中で企業として成功すること」です。しかし医療は社会的共通資本です。医療はそれらに同化していくのではなく、そこからはみ出した部分をむしろ広げる努力によって、トータルとして医療の質や患者の満足度向上に活用する方向へと換骨奪胎し、進めていくことができるかどうかが問われているのだと思います。
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