死んでたまるか12 3年が経過して 垣田 さち子(西陣) 北朝鮮帰国事業  PDF

 智恵光院通を北大路まで出て、ちょっと東に行った所に自転車屋さんがあった。おじちゃん、おばちゃんは親切な優しい人たちで、私も子ども用愛車のお手入れでよく立ち寄った。常にはタイヤの空気入れ、時にパンクの修理などで。いつも丁寧に、ハンドル具合や前輪後輪をチェックして、油を差したりちょっと磨いたりもしてもらった。作業中、電車通りを眺めたり、並んでいる商品の新しいきれいな自転車を触ったり、何のおしゃべりをしていたのか思い出せないが、のんびりした静かな時間を楽しんでいた。
 ある日突然、その自転車屋さんが閉まることになった。「朝鮮に帰らはるらしい。家を買うてほしいて来やはった」と父が言い、慌ただしく去って行かれた。後になり1959年から始まった“北朝鮮帰国事業”と理解したが、当時は誰もよく分からなかった。
 テレビのニュースで、たくさんのテープに包まれて岸壁を離れて行く船を見て「乗ったはるかな」などの会話も続かず。父は何も言わなかった。当時、北朝鮮は“地上の楽園”と喧伝され、税金も無いとまで言われた。特に医療費に予算なんてない。いるものは優先的に支払われるという考え方に大いに憧れた。今になって、国民は飢餓状態にある程の貧しさなのに、頻繁にミサイルを飛ばす無茶な国だと分かったが。拉致問題にしても、まともな国とは思えない。
 ぼんやりとしてもうお二人の顔も名前も思い出せないが、どうしておられるかと話題になる度に、一緒にいた時の穏やかなひとときを思い出す。北朝鮮に帰国した人たちへの迫害が報じられると、おじちゃん、おばちゃんには不本意な結果だったのかもしれないと思う。帰国は嬉しそうな様子だったので。
 理不尽な人生はいっぱいある。今日のウクライナの人々はその典型だろう。いくら許し難い暴挙と力いっぱい非難しても、具体的に行動できないもどかしさ。世界中で同じような思いに苦しんでいる人々は多いのだろう。これから百年、二百年経って世界はどうなっているだろう。
 1960年、政治家の浅沼稲次郎が演説中に17歳の犯人に刺殺される。1963年、アメリカのケネディ大統領が銃殺される。戦後の時代は着実に進み現代につながるできごとが続く。

ページの先頭へ