診察室よもやま話2 第20回 飯田 泰啓(相楽)歩行訓練  PDF

 長年、高血圧などで通院されていたHさんが、突然の胸痛発作で救急搬送されたのは2年前のことである。80歳代半ばのHさんは胸部大動脈瘤の手術を受けて命を長らえられた。
 その入院中に冠動脈狭窄も見つかり、冠動脈血管内治療を受けられた。そして回復期リハビリを経て退院となった。早速、かかりつけ医として、在宅療養ができる態勢を整えた。
 訪問看護と訪問リハビリを利用しながら、月に一度は訪問診療をすることにした。入院前のようには回復しないだろうが、せめて歩行器で歩けるようになることを目標にした。
 そんなHさんだが、いつ訪れてもベッドで横になっている。
 「Hさん、またベッドで横になっているのですか」
 「この方が楽なのです」
 「でも、いつまでも横になっていてはだめですよ。とにかく、足を動かして下さい」
 ベッドの上では下肢は動く、関節が拘縮しているわけでもない。
 「Hさん、もうそろそろ座りませんか」
 「ううん」
 「大きな手術を受けて、身体は元に戻ったのだから、元のように歩きたいでしょ」
 「そらそうやけど」
 「身体を支えますから、ベッドから足を下ろして」
 身体を支えて、ベッドに端座位にする。Hさんも自分で起きて座るのだが、1分もしないうちに横になろうとする。
 「もう寝かせてくれ」
 「せっかく、座ったのだから、もう少し頑張りませんか」
 「もうだめや」
 「でも、もう一度歩きたいでしょう。まず座れなければ歩けませんよ」
 娘さんも介護に熱心である。
 「お父ちゃん。どこも悪くないんやから、起きてや」
 介護用ベッドに端座位にはなるものの、すぐに横になってしまう。
 大動脈瘤と冠動脈の治療が済んでいる。心電図や血液検査ではおかしいところはない。ベッドの上では下肢も動かしている。少し手助けが必要だが、一人で寝返りもするし、身体を起こすだけの筋力もある。
 入院前には伝い歩きながら、自力でトイレにも行っておられた。自宅の浴室やトイレも改修が済んでいる。廊下には立派な歩行器も置かれている。いつでも利用できるようにと万全の態勢である。当然、リハビリをすれば、再び手術前までには戻るものと考えていた。
 このような訪問診療の繰り返しで、退院から半年が過ぎてしまった。そして循環器内科の定期受診が予約されている時期となった。
 「来週は病院で定期検査ですね」
 「病院に行かなければなりませんか」
 「でも、心臓や大動脈が順調なのか診てもらった方が安心でしょ」
 「もう、このまま、ここに居りたいのですが」
 とても長時間座っていることはできないので、自家用車で病院に連れていくことは難しい。横になったままの状態で受診できるようにと、ケアマネジャーが介護タクシーの手配をしてくれた。
 循環器内科で胸部CT検査を受けたのだが、胸部大動脈瘤の手術後や冠動脈血管内治療後の状態には問題は見つからなかった。ところが、そのCT検査でたまたま胸部脊柱管内に腫瘍が見つかったのである。MRI検査で確かめたところ第12胸椎の髄外腫瘍とのことであった。
 なかなか在宅では十分な評価ができないとはいえ、想像もしなかった結果であった。筋力があるにもかかわらず、Hさんがすぐに横になりたがる原因はこれであった。胸部大動脈瘤や冠動脈疾患は治療が終了していて、それ以外に異常はないと思い込んでいたのである。
 人は自分の見たいものしか見えていないのだそうである。認知バイアスというらしいが、一度思い込んでしまって間違った捉え方をすると判断を誤ってしまう。リハビリを怠けているとばかり思っていたHさんだが、リハビリが進まないのには、それなりの理由があった。Hさんにリハビリを強要したことを反省している次第である。

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