診察室 よもやま話2 第13回 飯田 泰啓(相楽)  PDF

算盤(そろばん)の先生
 我が国の総人口は減少しているが、65歳以上の高齢者人口は3640万人(総人口の29・1%)と、過去最多になっている(21年9月15日時点、総務省統計局より)。高齢者人口の急増とともに認知症患者数も増加し、25年には700万人と推計され、高齢者の約5人に1人に達することが見込まれている(厚生労働省推計)。
 私の外来でも認知症の相談をされることが多くなっている。
 80歳代半ばのAさんもそんな一人である。
 いつも奥様と一緒に来院される。奥様は夫のことで苦労されている。
 「昼間でもウトウトとしているのです。一緒に散歩をしようと言っても嫌がるのです」
 「でも、ご夫婦一緒にグランドゴルフに参加されていると聞きましたが」
 「そうだったのです。でも、最近は皆さんについて行けなくなっているのです」
 だんだんと足腰が弱って、ふらつくので、いつも傍に付き添っていなくてはならない。少し歩くと下肢がしびれて動けなくなるので、仲間のペースについて行けない。そのため仲間から、取り残されているようである。
 「これまで誘ってくれていた近所の方も、誘ってくれなくなったのです」
 「それは、残念ですね」
 「歩くのが遅いうえに、何打打ったかも覚えていないのです」
 「グランドゴルフのルールも覚えなければならないのですね」
 「夜中にはおっしこを漏らしてしまうし、トイレも汚くするのです」
 身体能力の衰えだけでなく、認知症も進んでいるようである。
 「それでも夢で昔のことを思い出しているようです」
 「どんなことがあったのですか」
 「夜中にいきなり起きだして、大事な書類が入ったカバンがないと騒ぐのです」
 「Aさん、そんなことがあったのですか」
 「そんなことあったけな」
 まるで他人事のように奥さんの顔を見ている。長年、会社の簿記をしていたAさんなので、翌日に会社に出勤する準備をしている夢を見ていたのかも分からない。
 「歯磨きや着替え、入れ歯の出し入れも、手伝っているのです」
 奥さんは、ほとほと困っている様子である。
 「一人で入浴ができないので、いちいち私が指示しているのです」
 「どうしてデイサービスで入浴されないのですか」
 「デイサービスに行くのを喜んでいたのですが、だんだんと行くのを嫌がるようになりました」
 「Aさん、デイにいくと趣味の将棋が指せると喜んでおられたのではないのですか」
 「いや、デイでの将棋は面白くなくって」
 「負けてばかりだからですか」
 「違う、違う。相手が弱すぎるのです」
 「えっ、そうなのですか」
 若い頃から将棋好きで、毎週、大阪福島の将棋会館に通っていて、三段を持っているとのことである。
 「それだったら、飛車角落ちで相手をしてあげたら」
 「それは失礼です」
 「福島の将棋会館が高槻に移転になると新聞に書いてありましたよ」
 「へえ、本当ですか」
 急に眼の色が変わった。本当かどうかは分からないのだが、認知症になったとは言え、昔の棋力は衰えていないようである。 
 そういえば、奥さんに連れて来られた初診時のことを思い出した。長谷川式認知症テストでのことである。
 「100から7を引いたらいくらですか?」
 「93」
 「そこから7を引いたら?」
 「86」
 即座に回答して、すべて正解なのである。
 「Aさん、計算は得意ですね」
 「当たり前です」
 不思議がっている私に対する奥さんの言葉が印象的であった。
 「この人は、もともと算盤の先生なのですよ」
 Aさんに聞いてみると、頭の中で算盤の珠が動いていると言う。算盤のできる人は暗算が得意であると聞いていたが、その能力は記憶の中枢が障害されても保たれているとは思わなかった。将棋の場合にも将棋盤の上で駒が動いているのであろう。算盤や将棋のように映像化されたイメージを操作する能力は、認知症での記憶力とは別の能力なのかも分からない。

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