在宅看取り
1951年には自宅で最期を迎える人が大部分で、病院・診療所における死亡は約1割に過ぎなかった。それが今日では、逆に8割以上が病院・診療所で最期を迎えていて、在宅死は約1割である。在宅死と入院死が逆転したのは75年頃である。現在では老衰やがん末期など死期の近づいた患者を最後まで自宅で看病しようとする家族は例外的である(『死を生きた人びと』小堀鴎【■偏は匚[はこがまえ]に品】一郎著)。
夜間の3時頃だったが、携帯電話の呼び出し音で目を覚ました。呼吸がおかしいとの家族からの連絡で駆けつけてくれた訪問看護師からの電話である。
「Aさんの息が止まりました」
「すぐに、伺います」
Aさんは認知症の奥さんと娘さんとの3人暮らしである。Aさんが心筋梗塞発作に見舞われたのは25年前。病院を紹介して血管内治療を受けられた。そして15年前には大動脈瘤が分かった。10年前には大動脈置換術と冠動脈バイパス術を受けられた。
その後は、半年に1回の循環器外科外来に通院されるだけで、普段の外来では、ほとんど血圧の管理をするだけであった。そんなAさんであったが、次第にうっ血性心不全が進んだ。外来での治療ではコントロールができなくなって入院していただいた。
入院して1カ月ほどして、娘さんが相談にお見えになった。
「父がもう亡くなりそうなのです」
「えっ」
「あれから、腎臓が悪くなって、尿が出なくなったのです。心臓も薬が効かなくなったのです」
「そんなに状態が悪くなっているのですか」
「人工透析をしますかと言われたのですが、それは断りました。もう苦しめたくないですから」
「そうですよね」
「もう数日しかもたないかもしれません」
危機的な状態に陥っていたAさんだが、最終的には薬剤に反応して、何とか心不全は落ち着いた。しかし、徐脈性心房細動となったためにペースメーカーを留置して退院された。
退院後、いつものように訪問看護を用いながら在宅診療で対応することになった。最初のうちは私が訪れる時間になると、気丈夫なAさんは応接室のソファーに座って待っていて下さった。
「ありがとうございます。そのうち、診療所に行くようにしますから」
「そうですね。また、外来に来て下さいね」
入院前と変わらない様子のAさんであった。しかし、数カ月すると、ベッドで横になっておられることが多くなってきた。
「夜間になると大騒ぎをするのです。『水を飲ませてくれ』と言ったかと思うと、『オリンピックに出る』と言うのです」
娘さんも、夜間は付き切りでの介護をされている。奥様もAさんの隣のベッドで寝ているのだが、夜間に起こされてぐったりとしている。
「先生、治るでしょうか」
「まだまだ大丈夫ですよ」
「もうだめです」
声にもならない声で問いかけるAさんにどのように声を掛けたらよいのか困ってしまう。こんな時、十分に頑張っているAさんに、頑張りましょうと声を掛けるのはあまりに酷に思えるからである。
訪問するたびに状態は悪くなっていく。
「先生に挨拶しないなんて。もともと、愛想のよい父だったので、不思議です」
「そうですね」
「苦しくないのでしょうか」
「もうろうとされているから、そんなに苦しんでおられませんよ」
「苦しまないで逝ってくれたらと思うのですが。それでも少しでも長く一緒にいたいと思う気持ちもあって不思議です」
そして娘さん、奥さんに看取られながら息を引き取られた。認知症の奥さんも淋しい淋しいとしきりに言っておられるのが耳に残っている。
亡くなられるのは、多くの場合深夜である。
死亡診断書を書くのはたいていの場合、明け方となる。誰もいない診察室で亡くなった方のことを思い返して診断書を記載する。
人が亡くなっても、何もなかったように時間は過ぎてゆく。人生とは何なのか、人生の儚さを考えさせられる時である。