肛門科の徒然日記 7 渡邉 賢治 (西陣)  PDF

大岡越前も痔で苦労

 今回は、ルイ14世、ナポレオンに続いて、大岡越前についてお話します。
 その前にちょっと脱線しますが、テレビドラマで時代劇と言えば、ぱっと頭に浮かぶのが、「水戸黄門」「遠山の金さん」と「大岡越前」です。今回の話を書こうと思った時、ふと気が付いたことがあります。それは、テレビドラマの時代劇には、それぞれ最後に恒例の決め台詞があるということです。
 「水戸黄門」だと終盤に光圀は悪人一味に「助さん!格さん!懲らしめてやりなさい!」と成敗を命じるところからクライマックスが始まって、「助さん!格さん!もういいでしょう」と言うと、助さん、格さんのどちらかが葵の御紋の印籠を掲げて最後の決め台詞「静まれ、静まれ。この紋所が目に入らぬか!こちらにおわす御方をどなたと心得る!畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!一同、御老公の御前である。頭が高い!控えおろう!」と。
 また、「遠山の金さん」では終盤に諸肌脱いで、肩にある桜吹雪の入れ墨を見せながら、「数ある花のその中で、大江戸八百八町に紛れもねえ、背中に咲かせた遠山桜、散らせるもんなら散らしてみやがれ」とか、「この背中の桜吹雪、まさか覚えがねえとは言わせねえぜ!」と見得をきる。最後に「一件落着」でしめる。
 でも「大岡越前」ではこのような最後の決め台詞が思い浮かびません。なぜでしょうね。
 大岡忠相は名奉行・大岡越前守として、「三方一両損」などの大岡裁きで有名です。悪人を成敗するというものばかりでなく、人情味あふれた裁き、「大岡裁き」があるところからも決め台詞はいらなかったのかもしれません。
 大岡忠相の話は歴史書というより、むしろ演劇や講談、落語で親しまれています。実際の大岡忠相は常に冷静で、計算の行き届いた官僚の鑑のような人物だったといいます。
 前置きがかなり長くなってしまいましたが、いよいよ本題に入ります。
 大岡忠相が書いた「大岡越前守忠相日記」には、痔で悩んだとの記載があります。この日記は元文2年(1737年)から約14年間にわたって書かれたものです。
 この中に、寛保3年(1743年)1月15日から17日までの3日間に痔で悩んだことが書かれています。そこには、「痔血走り、今日まかり出ず在宅」と書かれています。
 1月15日の朝、忠相は肛門の激痛で目が覚め、さらに出血もしていました。2日後に徳川家の近親を連れ墓参りに行くという公用の行事があったのですが、出血のために休みたいと行事責任者の稲生正武に告げると、「今頃言ってもだめ」との返事が返ってきました。正武は忠相が日頃からの宿命のライバルだったようです。
 結局、行事は延期となったそうで、忠相はほっと胸をなでおろしたのではないでしょうか。この日記の中で痔のことを書いたのはこの3日間だけだったようです。さすがに痛みと出血、そしてライバルである正武とのこともあって悔しい思いをしたので、思わず書きとどめたのでしょう。

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