母の実母の代で途絶えた松尾家の墓が彦根市は曹洞宗の寺・萬年山長松院の墓地にある。墓参時は、当然ご本尊釈迦牟尼仏を参拝し、住職手塚紀洋方丈の一家を訪ねる(本紙3030号に掲載)。
20年2月15日の訪問時、「何かよい推薦本でもありますか?」と尋ねると、イェール大学教授シェリー・ケーガン氏の講義録書『DEATH』を即座に挙げられ、暫らくして購入した。全10講あり、まずそのうち第1講「『死』について考える」の3頁目まで読んだ。しかし、取り組むべき課題としてまず哲学的には形而上学的なテーマ「死後の存在はあり得るか?」が挙げられ、次に、死にまつわる社会学的・心理学的な疑問点にも触れるとあった。また、この日本縮約版では、「死後の存在はあり得るか?」つまり「魂」は存在するのか否か、の形而上学的な考察部分の印刷を省略のうえ、結論的には、人間は他の動物・植物にはない人格的存在であるが、物理主義的には物質的な身体からなり、非物質的な「魂」はないとのことであり、両者の関連性やつながりが理解できぬまま、そんなことは当然のことではないかと興味が失せ、それ以上読み進められなくなった。
毎日36頁ずつ読むと計画し直し、忍耐して第1講最終頁までを読み終えると、補充部の「日本の読者のみなさんへ」あたりからおもしろくなり始めた。執筆者は哲学が専門で、講義では我々人間の生と死に取り囲まれた状況をさまざまに場合分けした事例を挙げ興味を引き、実証的・論証的に議論を進めていくので読み易く説得的である。
最も興味深かったのは第5講「不死―可能だとしたら、あなたは『不死』を手に入れたいか?」で、死は人生における良いことを剥奪するから悪いのであれば(剥奪説)、最も望ましいのは永遠に生きることなのであろうか?との問い掛けから始まる議論の展開であった。もっとも、死に至るまでの生の経過においては、未来の不確定性があり、そのような設定は不可能だと反論したくなるところもある。自分なりに考えるようにとのよき啓発書であると分かる。次は第9講「自殺」で、執筆者は自殺が常に正当であるとは認めないが、ごく一部の状況下であれ正当化の過程を解明したいものと死に至る生の時間的経過上での評価を図表化して納得を得ようと苦労しており、これも未来の不確定性論で反論できるぞなど興味深い書物と見た。ご購入ご一読をお勧めする。
なお、最近の墓参時に、和尚はどこに感銘を受け勧めてくれたのかと尋ねたら、「根底にキリスト教があっての理屈っぽい哲学者の議論なので、少し受け入れ難いところもありましたが、昔洗礼を受けたとお聞きしており、どう読みこまれるかとお勧めしたのです」。その後、いやあ、薪が火となり灰となれば、再び薪には戻りませんから(道元禅師「現成公案」)、三途六道の輪廻転生もなくなり、同じと言えば同じ、矛盾と言えば矛盾で、一切皆「空」ですね、との会話となった。「和尚もすすめるBOOK」に出会うよき縁とは、またそのようなものでもあろうか。
(宇治久世・宇田 憲司)
『DEATH 「死」とは何か』
シェリー・ケーガン著
柴田 裕之訳 文響社出版
2018年10月5日発行 1,850円+税