「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」 。平安時代の著作、枕草子の出だしである。作者の清少納言(966~1025頃)は、宮廷で暮らしていた頃、大文字山から比叡山にかけての東の空から夜が明けてゆくのを見て、春はあけぼの(夜明け)がいいと言った。大作の冒頭にこの文章を持ってきたことから判断すると、よほどこの景色が気に入ったのだろう。当時の御所は今と少し立地が異なるが、今の京都御所、中立売御門の近くからは東山が良く見える。寒さで固まっていた空気が、わずかに溶け始める早春の頃、実際、朝5時前、ここに立ち、東を向けば、人通りのほとんどない御所の凛とした空気の中、大文字山の北の空が少しずつ明るくなってゆくのが見える。かくして平安京の春の物語は目の前に再現され、しばしの間、辺りは、清少納言の感性、センチメンタリズムに包まれる。
「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」 (藤原家隆、1158~1237)。ならの小川は、京都市北区、上賀茂神社に流れている清流のこと。近くにこの歌を刻んだ石碑がある。川の水で身を清める禊は、夏の行事として目の前で行われているけれども、境内に立つナラの木に、そよ吹く風は心地よく、爽やかにさえ感じられる、夏の終わり。あれほど喧しかった蝉の声は聞こえなくなり、代わりに草むらから秋の虫の声が聞こえてくる。空は青く澄んでいるのに、ふりそそぐ太陽の光に力なく、浜辺では舟をたたみ、誰もいない海、活気あふれる情熱の季節は過ぎた、初秋のメランコリー。
山や川など身近な自然にあらわれる季節の変化を、古来の人々は美しい言葉にして愛でてきた。現代に生きる私たちが、ゆかりの地でそんな言葉に触れるとき、いにしえの人々の伝えたかった情景、思いなどは、時を超えてあざやかに眼前によみがえる。四季が移ろう豊かな自然に囲まれ、歴史と文化に彩られた京都の町には、今も昔も、美しい日本の言葉が良く似合う。
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