診察室よもやま話 第10回 飯田 泰啓(相楽)  PDF

黒色便

 便に赤い血が混じるとの訴えで受診される患者は多い。
 血便の場合は、大腸がんや大腸炎などを考えなくてはならない。しかし、よく聞くと排便後にトイレットペーパーに血液が付くとか、便器の水が真っ赤になったと来院される患者さんが大部分である。このような場合は、とりあえず痔からの出血を疑う。
 高齢女性の話である。
 「最近、トイレに行くたびに出血して困るのです。お薬を下さい」
 「便に血が混ざっているのでしょ。お薬というより、どうして出血しているか調べなくちゃ」
 「いえ、ウォシュレットの勢いが強くって。痛いと思うと出血するのです」
 「だったら、ウォシュレットを弱くしたらいいじゃないですか」
 「もちろん気がついたときには弱くしています。それでも、すぐに主人が強くしているのです」
 直腸指診では腫瘍などはないが、確かに肛門部に傷がある。
 「ウォシュレットを使うのを止めたらどうですか」
 「だって、ウォシュレットをつけるのには高いお金がかかったのですよ」
 とりあえずは軟膏で経過を見てもらうようにして、夫と喧嘩をしないようにウォシュレットの勢いの工夫をしてもらった。
 しかし、黒色便となると、上部消化管からの出血を疑わなければならない。
 ある日の午前の診察のことである。
 悲壮な顔をして診察室に入ってこられたのは二十歳過ぎの女性である。
 「真っ黒の便が出たのです」
 「いつからなのですか」
 「インターネットで調べると、胃がんかも知れないって。心配で、心配で」
 「で、お腹痛はないのですか」
 「全然ありません」
 「いつから、黒い便が出ているのですか」
 「今朝が初めてなのです。昨日はいつも通りの便でした。でも今日は大量に黒い便が出たのです」
 「で、便は固くないのですか」
 「下痢でも便秘でもありません。ただ、真っ黒なのです」
 黒色便やタール便と言われると、胃や十二指腸からの大量の出血を疑わなければならない。鉄剤を服用していると便は黒くなる。もちろんアスピリンやワーファリンなどを服薬していると胃や十二指腸の小さな潰瘍やがんでも止血しにくく、タール便になる可能性はある。解熱鎮痛剤でも胃潰瘍を起こす。先天性血液疾患や胃の毛細管血管拡張症などの珍しい病気なのかと考えるが、貧血もなく、これが初めての黒色便となると、どうも変である。
 「それで、薬とかサプリメントを飲んでいませんか」
 「いいえ。至って元気なので必要ありません」
 「ちょっと、お腹を触らせて下さい」
 「どこも痛いところはありませんか」
 腹部の触診でも、特に所見はない。
 「食欲はあるのですか」
 「食べすぎぐらいです」
 とは言っても、真っ黒な便が出て、胃がんを心配されている患者さんに、「まあ様子を見ましょう」というのもどうかと思ってみる。若い女性に直腸診をするのもためらってしまう。
 「心配されているので、胃カメラをしましょう。予約しますね」
 「でも、胃カメラって苦しくないのですか」
 「でも、わざわざ病院に来るくらいだから、胃がんのことを心配されているのでしょ」
 「あっ」
 その時、突然ベッドから起き上がって、恥ずかしそうな顔をして診察室から出ていこうとする。
 「どうしたのですか」
 「実は、昨日、友達とイタリアンレストランに行って、イカ墨パスタをいっぱい食べました。真っ黒な便の原因が分かりました」
 他にも、黒色便の原因になる食べ物には肉類や海苔がある。肉類の多い食生活が続くと、腸内の腐敗菌が増殖して便が黒くなる。飲み物でも、ワインやブドウジュースも便を黒くする原因になるようである。ポリフェノールやアントシアニンが豊富に含まれていて、その色素が黒い便の原因となってしまうようである。
 いやはや、黒色便の診断は難しいものである。

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